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音響イメージという名のカンバス:フェルメールの「窓」、ダリの「夢」~リアリティをめぐる試論~

  • 執筆者の写真: STUDIO 407 酒井崇裕
    STUDIO 407 酒井崇裕
  • 4 日前
  • 読了時間: 19分

はじめに:カンバスとサウンドステージ――二つのリアリティ様式

音響イメージの知覚は、時間的持続性とその不可逆的な展開、すなわちリアルタイム性を不可分の条件とします。私たちの聴覚は、時間の流れの中に立ち現れる音の連なりを通してのみ、その全体像を受容できるからです。対して、光を定着させる絵画のような視覚芸術は、一瞥のもとにその世界を共時的に把握させ、作者の思想や美意識を凝縮された形で提示します。

本稿は、二人の対極的な画家の思想をアナロジーとして、録音芸術が内包する本質を考察することを試みます。一人は、17世紀オランダ黄金期に光学的とも言える写実主義を極めたヨハネス・フェルメール。もう一人は、既成概念を打ち破る幻視の絵画を追求したシュルレアリスムの旗手、サルバドール・ダリです。本稿の核心的命題は、彼らが追求した芸術的真理が、録音芸術における「リアリティ」の解釈を巡る根源的な弁証法――すなわち〈表象的リアリズム〉と〈構築主義的シュルレアリスム〉という対立軸を、鮮やかに照射してくれるかも知れないという期待に基づいています。


フェルメールとダリ


フェルメールの芸術は、しばしば「現実への窓」と形容されます。それは、観察された世界を秩序と調和のもとに再構成し、その詩的真実を捉えようとする試みです。これを音響の世界に置き換えるならば、コンサートホールという実在の音響空間の美を、ありのままに録音媒体へ写し取ろうとする〈音響的写実主義〉の哲学と共鳴します。

対照的に、ダリの芸術は自らが「手描きの夢の写真」と呼んだように、無意識下に潜む内的な世界を、極めて写実的な技法で客観化する試みでした。この思想は、録音を客観的現実の模倣から解放し、音楽の内的な論理や感情の起伏といった「心象風景」を構築するための全く新しい空間と見なす〈音響的シュルレアリスム〉の創造者たちと響き合います

このフェルメールの「窓」とダリの「夢」という対比を羅針盤として、録音におけるイメージの価値観はどう解釈されるでしょう。フェルメールとECMレコードの美学、そしてダリとデッカ・レコード、グレン・グールド、さらにはザ・ビートルズの実験的セッションを詳細に分析することで、一枚のディスクに刻まれた音響が、単なる音の記録ではなく、技術と芸術、そして思想が交差する豊穣な文化的産物であることの論証を試みます。最終的に、芸術における「リアリティ」そのものが持つ多層的な意味について迫ってみたいと思います。


第1章 フェルメールの窓:現実という名の緻密な人工物


フェルメールの「リアリズム」を、現実の単純な転写と見なすことは、彼の芸術の核心を見誤らせます。彼の作品は、ECMレコードの録音がそうであるように、極めて様式化され、技術的に媒介された、詩的で理想化された真実の構築物なのです。


1.1 機械の眼差し:カメラ・オブスクラと原=写真的リアリティの構築


フェルメールがカメラ・オブスクラ(暗い部屋)を使用したか否かという問いは、美術史における長年の論争の的となってきました。この問いの重要性は、彼が「不正」を働いたか否かにあるのではなく、彼の芸術的ヴィジョンが、客観的で光学的な表象様式へといかに深く移行していたかを示す点にあります。

彼の絵画には、レンズを介した装置の使用を示唆する光学的な痕跡が数多く見られます。

  • ブラーと「ボケ」:レンズを通して見た場合に焦点が合わない部分が、ぼやけて描かれています。『牛乳を注ぐ女』のテーブルに置かれたパンの描写は、写真における「ボケ」効果の顕著な例です。

  • 錯乱円(ポワンティエ):焦点の合わない部分のハイライトが、光の球状の点として描かれる現象です。この「錯乱円」は、カメラ・オブスクラの不完全なレンズが生み出す光学効果と正確に一致しており、『レースを編む女』などで顕著に見られます。

  • 遠近法とプロポーション:彼の室内画における遠近法と空間関係の驚くべき正確さは、光学的補助具の使用を強く示唆します。時に、『士官と笑う娘』に見られる前景の人物の誇張された大きさのような、写真的な歪みすら伴っています。


しかし、フェルメールが単にカメラ・オブスクラの投影をなぞっていたわけではありません。当時の装置が映し出す像は薄暗く、上下反転しており、それを絵画に変換するには高度な技術と解釈が必要でした。一説には、油を引いた透明な紙に像を写し取り、それをカンバスに転写するという、それ自体が非常に創造的なプロセスを要した可能性も指摘されています。

ここで重要なのは、カメラ・オブスクラが単なる道具であったか否かという事実問題を超えて、フェルメールがいかにその光学的言語を新たな視覚的文法として内面化していたかという点です。彼は、カメラ・オブスクラが投影するものを描いただけではありません。彼は、カメラのように見ることを学んだのです。その証拠に、彼は錯乱円(ポワンティエ)のような光学的効果を、磨かれた表面だけでなく、布地のような、本来カメラ・オブスクラではそのようには見えないはずの対象にも適用しています。これは、彼がレンズの美学――そのぼかし、光のアーティファクト、平面的な遠近感――を、光と存在の感覚を増幅させるための表現手段として自在に用いていたことを示しています。カメラ・オブスクラは労働を省くための装置ではなく、世界を物語性から解放し、純粋な光学的現象として捉え直すための、概念的な触媒だったと言えるかも知れません。


1.2 光で描く:下塗りとグレーズ、そして雰囲気の真実


フェルメールの絵画の、一見すると苦労の跡のない自然主義は、その実、極めて計画的で多層的な制作プロセスの賜物です。彼は、当時の北ヨーロッパの芸術家たちの伝統的な工房手法に則り、下塗り、「ワーキングアップ(描き起こし)」、そしてグレーズ(透明な絵の具の層を重ねること)といった段階的な技法を用いていました。

近年の技術分析により、彼がしばしば茶色の油絵具によるモノクロームの描き下ろしから制作を始めていたことが明らかになっています。この段階で彼は、構図だけでなく、光と影の戯れを作品の中心的要素として最初から確立していました。そして、この暗い下塗りの層を、上層の絵の具を薄く塗ることで意図的に透かし見せ、豊かで複雑な陰影と色彩の調和を生み出しました。例えば、『天秤を持つ女』のジャケットの影の部分では、青い絵の具の下から暖色系の茶色の下塗りが見え隠れし、フェルメール特有の色彩効果を生んでいます。

彼の光の描写は、単なる模倣ではありませんでした。彼は、ざらつきのある顔料を用いて下塗りの層にテクスチャーを与え、その物理的な凹凸が光を捉えるように仕向けました。また、柔らかいエッジを生み出す「スカンブリング」という技法を用いて、描かれた対象に回転する感覚と雰囲気を与えました。そして彼の代名詞ともいえるポワンティエは、単に光学効果を模倣するためだけでなく、パンの皮のような表面に触覚的なきらめきを与えるために用いられました。彼のリアリズムとは、光の物理的特性の受動的な描写ではなく、鑑賞者に対する光の効果を能動的に喚起する営みだったのです。


1.3 音響的アナロジー I:ECMの美学――空間の「アウラ」を記録する


このフェルメール的なリアリズムの探求は、マンフレート・アイヒャーが1969年に設立したレコードレーベル、ECM(Edition of Contemporary Music)の美学と深く共鳴します。アイヒャーの哲学は、即興音楽に対する室内楽的アプローチに根ざしており、音と表現の明晰さを最優先します。彼は自らの役割を、録音会場の選定から最終的なアルバムカバーのデザインに至るまで、芸術的プロセスを導く映画監督になぞらえます。

ECMの美学は、「沈黙に次ぐ最も美しい音」という標語に象徴されます。アイヒャーは、音楽は沈黙から生まれ、沈黙へと溶け込んでいくものだと信じており、その哲学はECMのレコードの冒頭に置かれる意図的な静寂に表れています。これは、フェルメールの室内画が持つ深遠な静謐さと通底しています。

「ECMサウンド」とは、画一的な技術的プリセットではなく、個々の音楽と音響空間に寄り添うアプローチです。その核となる技術は以下の通りです。

  • ミニマリスト・マイキング:個々の楽器にマイクを近接させるのではなく、厳選された少数の高品質マイクを用いて、教会や特定のスタジオといった、慎重に選ばれた空間の自然な音響を捉えます。これは、フェルメールが室内に差し込む「窓」からの光を唯一の光源とした手法のアナロジーです。

  • 楽器としての空間:録音会場の自然な残響は、単なる背景効果ではなく、音楽そのものを構成する不可欠な要素として扱われます。これは、フェルメールが光そのものを絵画の主題の一つとしたことに類似しています。

  • 明晰性と透明性:ECMの録音は、ピンポイントのステレオ・イメージ、卓越した明晰さ、そしてダイナミックレンジの保持によって知られ、明晰で透明な音響風景を創出します。

その結果生まれるのは、「雰囲気のリアリズム(Atmospheric Realism)」です。それは、コンサートのドキュメンタリー的記録ではありません。共鳴豊かな音響空間の中にミュージシャンたちが存在する、様式化され、理想化された表象です。それは、フェルメールが緻密に秩序立てられた光に満ちた部屋を描いたことの、音響的な等価物に似ています。アイヒャーの目的は、単に音符を捉えることではなく、演奏のアウラそのものを記録することにあります。フェルメールの秩序ある部屋も、アイヒャーの共鳴するサウンドスケープも、鑑賞者(聴取者)を、外界の混沌から離れ、静かで集中した瞬間に潜む深い真実と美を見出すように誘う、芸術的な構築物なのです。

しかし、この「雰囲気のリアリズム」は、別の側面からも捉えることができます。それは、予測不可能な偶然性がもたらす「一回性」のリアリティです。1987年5月、ウラディミール・ホロヴィッツがウィーンの楽友協会(Musikverein)で行ったリサイタルはその好例です。シューベルトの即興曲D.899 No.3の演奏中、録音には教会の鐘の音がかすかに混入し始めるのが聴き取れます。これは、楽友協会のすぐ近くに位置するカールス教会の鐘の音である可能性が高いでしょう。この偶然の出来事に対し、ホロヴィッツは動じることなく、むしろ鐘の音に寄り添うかのように演奏のニュアンスを繊細に変化させていくように感じられます。この二度と再現不可能な音の邂逅は、演奏という芸術行為が、その時間、その場所でしか起こり得ない唯一無二の出来事であることを聴き手に深く刻みつけます。それは、完璧にコントロールされたスタジオ録音とは対極にある、生のドキュメントとしてのリアリズムです。聴き手は、この偶然の産物を自らの記憶や感情と結びつけ、個人的な物語を紡ぎ出します。この「自分だけの物語」こそが、その人にとっての紛れもないリアリティとなるのです。このように、音響的写実主義は、意図的に構築された理想空間だけでなく、偶然性がもたらす一回性の記録という形でも、私たちに深い真実を提示するのです。




第2章 ダリの夢:非合理の超=写実主義


ダリの芸術と、それに呼応する音響的創造者たちのパラドックスは、極めて理性的で精密な技術を用いて、非合理的で主観的な、夢のような内容を表現する点にあります。このパラダイムにおいて、レコーディングスタジオは、心理的なリアリティを構築するための実験室となります。


2.1 精神分析医の寝椅子:フロイトと「偏執狂的=批判的方法」


ダリの芸術の理論的基盤は、ジークムント・フロイトの精神分析理論、特に『夢判断』に対する彼の傾倒にあります。ダリは、夢、欲望、恐怖といった無意識の領域にこそ、より高次の現実、すなわち「超=現実(シュルレアリスム)」が存在すると信じていました。

シュルレアリスムへのダリの最大の貢献は、彼が創始した「偏執狂的=批判的方法(Paranoiac-Critical Method)」です。これは、「錯乱した現象の連想と解釈の、批判的かつ体系的な客観性に基づいた、非合理的な知識の自発的方法」と定義されます。

この方法は二つの段階から構成されます。

  • 偏執狂的(Paranoiac):芸術家が、対象間の非合理的な結びつきを知覚し、無意識のイメージにアクセスするために、意図的に偏執狂的(パラノイアック)あるいは錯乱した精神状態を誘発します。これが「非合理的な知識」の段階です。

  • 批判的(Critical):次いで、芸術家は自らの意識的、批判的な知性と技術的熟練を用いて、これらの錯乱したヴィジョンを最大限の精密さで「客観化」します。これが「体系的な客観性」の段階です。

ダリが目指したのは、「最も帝国主義的な精密さの激情をもって、私の具体的な非合理性のイメージを物質化する」ことであり、彼が「手描きの夢の写真」と呼ぶものを創造することでした。


2.2 錯乱の論理:ダブル・イメージと細密描写


偏執狂的=批判的方法の主要な産物の一つが、「ダブル・イメージ」あるいは「マルチプル・イメージ」であり、そこでは一つの曖昧な形態が、同時に複数の異なるものとして解釈されえます。

  • ケーススタディ:『白鳥は象を映す』(1937年)この作品は、この技法の典型例です。湖に浮かぶ白鳥たちが、水面に映る姿は象へと変貌します。この合理的にはあり得ない変容が、細密でアカデミックなリアリズムをもって描かれています。

  • ケーススタディ:『聖アントワーヌの誘惑』(1946年)この作品は、聖アントワーヌが砂漠で経験したとされる誘惑を、ダリ独自の方法で視覚化したものです。画面左下には、裸で十字架を掲げる聖人が小さく描かれ、その信仰の力で、巨大な誘惑の行列を退けようとしています。行列の先頭に立つのは、力を象徴する馬ですが、その次に続くのは、蜘蛛のように細く長い足を持つ、物理的にあり得ない姿の象たちです。これらの象は、背中に欲望を象徴するオブジェを乗せています。例えば、裸の女性が立つ杯(肉欲)、ベルニーニ風のオベリスク、そしてパラディオ様式の建築物(富や権力)などです。ここでは、力、肉欲、富といった内面的な誘惑が、グロテスクでありながらも極めて写実的に描かれた動物や建築物として「客観化」されています。これは、内なる精神の葛藤という非合理的なテーマを、細密な描写という合理的な技術で描き出す、偏執狂的=批判的方法の真骨頂と言えるでしょう。

  • ケーススタディ:『幻覚剤的闘牛士』(1970年)この後期の複雑な作品は、この方法論の可能性を最大限に示しています。ハエの群れが闘牛士の衣装を形成し、ミロのヴィーナスが繰り返し現れ、死にゆく雄牛が海水浴客のいる入り江へと変貌します。

ダリの作品の力は、この根本的な矛盾から生まれます。鑑賞者は、非論理的で夢のような世界を提示されますが、それはあまりにも説得力のあるリアリズムで描かれているため、私たち自身の現実認識を揺さぶるのです。非合理的な内容をこれほどまでに不穏で説得力のあるものにしているのは、まさにその技術の精密さなのです。


2.3 音響的アナロジー II:夢の風景としてのスタジオ――デッカ、グールド、そしてザ・ビートルズ


1950年代以降、レコーディングスタジオは、単なるドキュメンテーションの場から、自己完結した音響世界を創造する、ダリ的な構築の場へと次第に変貌していきました。


2.3.1 デッカ・ツリーと「実物以上」のサウンドステージ


1954年にデッカ・レコードのエンジニアによって開発された「デッカ・ツリー」は、オーケストラ録音に用いられるマイクロフォン・アレイです(典型的には、T字型に配置された3本のノイマンM50と、2本のアウトリガー)。M50マイクロフォンの選択は決定的に重要でした。そのユニークな設計(球体上の小口径振動板)は、高周波数帯域で指向性を持ちステレオ・イメージを向上させ、同時に低周波数帯域では無指向性を保ちホールの豊かな響きを捉えることを可能にしました。その結果生まれたのが、有名な「デッカ・サウンド」です。それは、コンサートホールで聴く体験そのものよりも、よりワイドで、深く、ディテールに富んだ、「実物以上(larger-than-life)」の音響スペクタクルでした。これは、純粋なドキュメンタリー的リアリズムから、構築された超現実的な音響体験への、初期の意図的な移行を象徴しています。


2.3.2 グレン・グールドのモンタージュと「音響的オーケストレーション」


ピアニストのグレン・グールドは、1964年にライブ演奏から引退し、録音こそが別個の、そしてより優れた芸術媒体であるという信念のもと、スタジオ制作に専念しました。彼は、録音がライブ・イベントの単なる模倣であるべきだという考えを完全に否定しました。

グールドにとって、テープ編集(スプライシング)は、ミスタッチを修正するための手段ではなく、単一のテイクでは決して存在し得なかった理想の演奏を創造するための、映画のモンタージュに似た手法でした。さらに彼は、「音響的オーケストレーション」という技法を開拓しました。これは、複数のマイク(近接マイクから遠距離マイクまで)を配置し、それらの間をミキシングすることで、映画監督がクローズアップとロングショットを使い分けるように、音響的な視点をダイナミックに変化させるものでした。これにより彼は、音楽の構造を明確化し、聴取者をコンサートホールではなく、ピアノの内部、あるいは彼自身の分析的な精神の内部という、完全にスタジオ内で構築されたリアリティへと配置したのです。


2.3.3 ザ・ビートルズのサイケデリックな錬金術:楽器としてのスタジオ


1966年にツアー活動を停止したザ・ビートルズは、スタジオを、ライブ・サウンドを記録する場としてではなく、サイケデリックな体験を音に変換するための、音響的発明の道具として扱い始めました。彼らの芸術的野心(サイケデリックな意識を表現したいという「偏執狂的」な欲求)と、スタジオで利用可能な技術(テープマシンやミキサーといった「批判的」な道具)は、強力なフィードバック・ループの中に存在しました。彼らの芸術的要求は技術を限界まで押し広げ、それが新たな発明(ADTなど)につながり、その発明が今度は彼らが以前は想像もしなかった新たな創造の可能性を開いたのです。

彼らの「批判的」な技術のパレットには、以下のようなものがありました。

  • ADT(人工的ダブルトラッキング):『リボルバー』のセッション中、ジョン・レノンが手作業でのダブルトラッキングを嫌ったことから、エンジニアのケン・タウンゼントによって発明されました。可変速発振器を持つ2台のテープマシンを用いて、音のコピーにわずかな遅延とピッチの揺らぎを与えることで、「フランジング」効果を生み出しました。

  • ヴァリスピード(テープ速度操作):楽器や声の音色を変化させるために多用されました。『イン・マイ・ライフ』の「ハープシコード」風ピアノ(半分の速度で録音)や、『レイン』の重く夢幻的なバッキング・トラック(遅回しで録音)などがその例です。

  • 逆回転テープ:レノンによる偶然の発見が、『アイム・オンリー・スリーピング』のギターソロや『レイン』のボーカルなど、逆回転サウンドの体系的な使用へとつながりました。

  • テープループとミュージック・コンクレート:アヴァンギャルド音楽に触発され、特にポール・マッカートニーがテープループの使用を推進しました。その頂点が『トゥモロー・ネバー・ノウズ』であり、笑い声、オーケストラの和音、メロトロンなど、複数のループがミキシング・コンソールに送り込まれ、フェーダー操作によって「ライブ演奏」され、混沌としながらも制御されたサウンド・コラージュが生み出されました。

  • 音響構築のケーススタディ:『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』この楽曲は、彼らのダリ的アプローチの頂点を示します。レノンは、全く異なる二つのテイク――テイク7(より遅く、幽玄で、メロトロンが特徴)とテイク26(より速く、重厚で、チェロとブラスが特徴)――を結合したいと望みました。問題は、二つのテイクが異なるキーとテンポで録音されていたことでした。プロデューサーのジョージ・マーティンとエンジニアのジェフ・エメリックは、両方のテイクの再生速度を精密に調整し、スプライス・ポイント(約1分地点)でピッチとテンポが一致するようにすることで、この「不可能」な編集を成し遂げました。その結果、ライブでは決して演奏不可能な、シームレスでシュールな全体像が創造されたのです。



この芸術と技術の共進化は、スタジオが弁証法的な創造の場となったことを示しています。そこでは、芸術家の非合理的な欲望がエンジニアの合理的な問題解決と出会い、部分の総和以上の結果を生み出し、「レコード」の定義そのものを根本的に変えてしまったのです。


結論:音響イメージ・リアリティの複数性――ミメーシスから真実性へ

フェルメールとダリ。二人の巨匠の探求は、私たちに根源的な問いを投げかけます。芸術における「リアリティ」とは、一体何を指すのでしょうか。本稿の考察を通じて、フェルメールの「リアリズム」とダリの「シュルレアリスム」という対立軸は、その境界線を曖昧にしていきます。両者は客観性と主観性、あるいは現実と虚構という単純な二項対立に還元されるものではなく、むしろ、芸術家が自らのヴィジョンを通して世界を解釈し、鑑賞者と共有しようとする、その「真実性(truthfulness)」の様態なのです。

フェルメールのリアリズムは、現実の受動的な模倣ではありません。それは、構図の決定、光の角度の選択、そしてカメラ・オブスクラの文法の採用といった、無数の主観的判断を通して濾過され、再構築された「詩的真実」です。私たちが彼の窓を通して見るのは、現実そのものではなく、観察された現実の中に潜む調和と秩序という、フェルメール自身のヴィジョンなのです。

一方、ダリのシュルレアリスムは、単なる無秩序な混沌ではありません。彼の描く溶ける時計や奇妙な生物が私たちの心に深く刻まれるのは、それらが古典的な絵画技法に裏打ちされた、圧倒的な写実性をもって描かれているからに他なりません。彼の作品は、私たちの無意識の中にあるかもしれない、もう一つの「リアリティ」の真実を、客観的な世界の言語で翻訳する試みなのです。

この二元性は、音響的アナロジーにおいても同様に止揚されます。「写実主義」を標榜するECMの録音もまた、マイクロフォンの選択と配置、ホールの選定といった無数の主観的判断の産物であり、ある特定の「理想化された現実」を提示しているに過ぎません。それは、コンサートホールという現実の音響的肖像画であると同時に、その美しさを最大限に引き出そうとするエンジニアの「解釈」が込められた作品でもあります。また、ときとして、ホロヴィッツのウィーンの楽友協会での出来事にみるように偶然性がもたらす一回性が唯一無二の出来事であることを聴き手に深く刻みつけ、個々の心の内面に、写実を超えたリアリティを産み出すこともあります。

一方で、ザ・ビートルズやグールドの「シュルレアリスム」的な録音も、音楽の構造や感情の起伏という、目には見えないが確かに存在する「内的なリアリティ」を、音響空間として具現化しようとする試みです。それは、物理的な現実からは乖離しているかもしれませんが、音楽が喚起する感情やイメージに対しては、より「忠実」であろうとします。

結局のところ、芸術におけるリアリティを評価する上で、「忠実性(fidelity)」という基準は、哲学的に見て脆弱です。リアリズムは相対的なものであり、特定の文化や時代における慣習的な表象システムによって決定されるという考え方があります。古代ギリシャのミメーシス(現実の模倣)という概念は、もはや芸術の多様な実践を説明するには不十分です。

一枚の録音に宿るリアリティとは、それがコンサートホールの響きを忠実に再現しているか否かという問い以上に、それが描き出す音響世界が、その音楽の内的な真実といかに深く結びついているか、という問いの中にこそ見出されます。フェルメールのヴィジョンが外なる世界の詩的本質に向けられていたのに対し、ダリのヴィジョンは内なる世界の迷宮に向けられていました。同様に、すべての録音は、それが外的な音響現象の理想化された肖像であれ、内的な心理風景の緻密な構築物であれ、それ自体が存在しているという事実において、唯一無二のリアリティなのです。


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