top of page

プロデューサー研究:トーマス・フロスト:クラシック音楽録音の黄金時代を築いたサウンドの建築家 ~ホロヴィッツ、グールド、オーマンディ~

  • 執筆者の写真: STUDIO 407 酒井崇裕
    STUDIO 407 酒井崇裕
  • 9月1日
  • 読了時間: 19分

更新日:9月15日

I. 序論:クラシック音楽録音・芸術の巨匠


20世紀のクラシック音楽録音史において、トーマス・フロストの名は単なるプロデューサーの域を遥かに超え、「サウンドの建築家」として燦然と輝いています。彼の仕事は、ウラディミール・ホロヴィッツ、グレン・グールド、ユージン・オーマンディといった、それぞれが巨大な芸術的個性を持つ巨匠たちと録音技術との間に立ち、その音楽的本質を永遠の記録として刻み込むという、極めて繊細かつ重要な役割を担いました。フロストのキャリアは、芸術的誠実性、技術的可能性、そして演奏家の複雑な心理を見事に調和させた、録音芸術における一つの到達点を示すものです。彼の天才性は、20世紀を代表する音楽家たちの、時に相反する要求に対して完璧に適応し、それぞれの芸術家にとって理想的な音響環境を創造する能力にありました。

フロストは、そのキャリアを通じて数々のグラミー賞に輝き、特に伝説的ピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツとの共同作業は、クラシック音楽録音の金字塔として広く知られています。しかし、彼の功績はホロヴィッツとの仕事に留まりません。知的な構築美を追求したグレン・グールド、そして豊潤なオーケストラサウンドを誇ったユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団との録音は、フロストがいかに多様な音楽的ビジョンに対応できるプロデューサーであったかを物語っています。彼はコロンビア・マスターワークスやソニー・クラシカルといった主要レーベルの中核を担い、業界の発展そのものに深く関与しました。

彼のキャリアを俯瞰すると、そこには一貫した「フロスト・サウンド」と呼べるような、制作者の個性を押し付けた痕跡は見られません。むしろ、彼の哲学は、カメレオンのようにアーティストの個性に寄り添い、その芸術性が最も輝くための音響空間を設計することにありました。彼は自らのビジョンを強いる「作家」ではなく、アーティストのビジョンを最大限に引き出す「触媒」でした。ホロヴィッツのロマンティックな情熱、グールドの分析的な知性、オーマンディの壮麗な響きという、本来相容れない美的目標を持つアーティストたち全員と歴史的録音を残し得たという事実そのものが、フロストの非凡さを証明しています。彼の録音哲学の根底には、アーティストの音楽に深く耳を傾け、彼らがテクノロジーに何を求めているのかを正確に理解する、という姿勢がありました。この意味で、トーマス・フロストの遺産は、クラシック音楽における偉大なプロデューサーとは、自らが透明なレンズとなり、アーティストの光を歪めることなく後世に伝える存在であることを、身をもって示した点にあると言えるでしょう。


トーマス・フロスト
Thomas T. Frost

II. 音楽的基盤の形成:ウィーンからイェール、そしてデッカへ


トーマス・フロストが録音プロデューサーとして大成した背景には、単なる技術的知識だけでなく、彼自身の深く厳格な音楽的素養が存在しました。彼が最高峰のアーティストたちと対等に渡り合い、その信頼を勝ち得たのは、彼自身が演奏家であり、音楽学者としての深い知見を持っていたからに他なりません。

1925年、音楽の都ウィーンに生まれたフロストは、幼少期に世界的に名高いウィーン少年合唱団に所属しました。この経験は、彼にヨーロッパのクラシック音楽の伝統を肌で感じさせ、その後のキャリアの礎を築きました。彼の音楽教育はそこで終わりません。アメリカに渡った後、彼は名門イェール大学音楽学部で学び、20世紀を代表する作曲家であり音楽理論家でもあるパウル・ヒンデミットに師事しました。これは単なる実技教育ではなく、音楽の構造や理論に対する深い洞察力を養う、極めてアカデミックな訓練でした。この時期に培われた分析的な視点は、後にプロデューサーとして演奏を評価し、編集点を判断する上で不可欠な能力となりました。

彼のプロフェッショナルとしてのキャリアは、1952年から1957年にかけてアメリカン・デッカ社でプロデューサーとして始まりました。この時期の最も重要な経験の一つが、伝説的ギタリスト、アンドレス・セゴビアのプロデュースです。フロスト自身が後に「拷問だった」と述懐しているように、セゴビアの完璧主義と録音に対する極度の不安は、若いプロデューサーにとって大きな試練でした。セゴビアは、録音されたテイクが完璧であることに異常なまでにこだわり、その精神的プレッシャーは計り知れないものがありました。

しかし、このセゴビアとのセッションこそが、フロストを鍛え上げた「るつぼ」であったと言えるでしょう。彼はこの経験を通じて、プロデューサーの仕事が単にマイクを立てて音を録ることだけではないと学びました。それは、偉大な芸術が生まれる瞬間に伴う、演奏家の不安や気質といった人間的側面を管理し、最高のパフォーマンスを引き出すための環境を整えることでした。セゴビアの「録音を寸分違わず正確に仕上げたい」という強迫観念にも似た欲求は、音楽的な問題ではなく、心理的な問題でした。フロストは、この問題を解決することなしに、音楽的な目標は達成できないことを痛感したのです。この初期の苦闘は、後に彼がホロヴィッツの繊細な精神状態や、グールドの徹底したコントロール欲求といった、全く異なる、しかし同様に強烈な個性の持ち主たちと対峙する上での貴重な糧となりました。フロストのキャリアは、音楽的知識のみならず、人間に対する深い洞察力と忍耐強い交渉術の上に築かれたものであり、完璧なテイクへの道は、不完全な人間性への理解を通じて開かれることを、彼はキャリアの早い段階で体得していたのです。


III. レコーディング哲学:完璧な演奏と生々しい瞬間の間で


トーマス・フロストのキャリアを貫く中心的な哲学的課題は、技術的に完璧で非の打ちどころのない「理想の演奏」を追求することと、二度と再現不可能なライヴ演奏の「生々しい瞬間」のエネルギーを捉えることとの間の、緊張関係をいかに調停するかという点にありました。彼が導き出した答えは、固定された一つのルールではなく、アーティストの芸術的意図を最優先する、柔軟で実用的なアプローチでした。この姿勢は、結果として「オーセンティック(本物)」な録音とは何か、という定義そのものを拡張することになりました。

この哲学を最も象徴するのが、1966年にグラミー賞を受賞したアルバム『Horowitz at Carnegie Hall - An Historic Return』の制作過程です。1965年に行われたこの歴史的なカムバック・コンサートの録音において、フロストはコンサート本番で生じたミスタッチや僅かな乱れを修正するために、事前のリハーサルで録音されたテイクを編集で挿入するという手法を用いました。この決断は、厳密な意味でのドキュメンタリーとしての正確性よりも、聴衆が体験する「歴史的成功」という物語を優先するものでした。フロストの目的は、単なる演奏の記録ではなく、ホロヴィッツの「伝説」そのものをレコード盤に刻み込むことであり、そのためには事実の記録を芸術的に構築し直すことも厭いませんでした。後にこのコンサートの無編集版がリリースされたことで、フロストが当初の「完璧なドキュメント」をいかに緻密に作り上げたかが明らかになりました。


ホロヴィッツ
左:編集盤 右:無編集のライブ音源


復帰コンサート前の1965年1月7日にカーネギーホールで行われたリハーサルの様子。通しでレコーディングされているため、ホロヴィッツとの会話やエンジニアとのやり取りも生々しく記録されている。このリハーサルを含め複数回(1月13日も行われた)のセッションの音源が編集テイクとして採用されたと思われる。

このアプローチは、グレン・グールドとの仕事において、さらにラディカルな形で展開されます。グールドにとって、レコーディングとは演奏会の記録ではなく、スタジオという実験室で理想の解釈を「構築」する行為そのものでした。フロストを含む彼のプロデューサー陣は、グールドがまず全体を通して演奏し、その後で気に入らない部分や僅かなミスを修正するための短い「インサート(部分録音)」を無数に録音し、それらをテープ編集で繋ぎ合わせて一つの完璧な演奏を創造する、という特異なプロセスを支えました。これは、ホロヴィッツが編集を「起きた出来事の記録を完璧にするため」に用いたのに対し、グールドは「決して起き得なかった理想の出来事を創造するため」に用いたことを意味します。

フロストが、この対極にある二つの哲学を完璧に理解し、それぞれを最高の形で実現させたという事実は、彼が録音というメディアの本質を深く洞察していたことを示しています。彼は、20世紀半ばのクラシック録音が「ドキュメンタリー」から「構築主義的」なメディアへと移行する、その中心にいた人物でした。テープ編集技術を発明したのは彼ではありません。しかし、20世紀で最も重要な二人のピアニストの相反する哲学を実現するためにこの技術を駆使したことで、彼はその両方のアプローチを芸術として正当化し、クラシック音楽のアルバムが持ちうる可能性を大きく広げたのです。フロストは、「本物らしさ」とは客観的な一つの状態ではなく、アーティストの意図に応じて構築されうる主観的な品質であることを理解していました。このポストモダン的とも言える洗練された認識こそが、彼を単なる技術者ではなく、真の録音芸術家たらしめたのです。



IV. 偉大なるコラボレーション:三人の巨匠との仕事



A. ウラディミール・ホロヴィッツ:火山を鎮め、詩人を捉える


トーマス・フロストのキャリアにおいて、ウラディミール・ホロヴィッツとの関係は最も輝かしく、また最も長く続いたものでした。その共同作業は、ホロヴィッツの代名詞であった高電圧のヴィルトゥオジティを捉えることから始まり、キャリア後期のより内省的で詩的なスタイルを記録するに至るまで、アーティストの芸術的変遷と共に深化していきました。フロストの役割は、極めて気質が激しいことで知られたこの天才ピアニストに対し、常に安定した創造環境を提供し、ライヴとスタジオの両方で最高の成果を引き出すことにありました。

彼らが共に作り上げたアルバムは、グラミー賞の歴史そのものです。『Horowitz at Carnegie Hall』(1966年受賞)、『Horowitz Plays Rachmaninoff』(1972年受賞)、『Concert of the Century』(1978年受賞)、『Horowitz - The Studio Recordings, New York 1985』(1987年受賞)、そして『Horowitz in Moscow』(1988年受賞)など、数々の受賞作がその成功を物語っています。フロストはホロヴィッツの芸術を深く理解し、その本質を「ピアノからかつて聴かれたことのないような音色と色彩の幅を発明し、かろうじて聴こえるピアニシモから雷鳴のようなフォルティッシモまで、ピアノのあらゆる側面を拡張し続けた」と的確に表現しています。この言葉は、フロストが単なる技術者ではなく、ホロヴィッツの音楽の核心を理解する批評的聴き手であったことを示しています。

特に注目すべきは、フロストがプロデュースしたドイツ・グラモフォンでの晩年の録音群です。これらのセッションでは、かつて見られた過度な装飾や不安定さが影を潜め、より「歌うような詩的な」演奏が記録されています。ホロヴィッツの芸術が悪魔的な輝きから、よりシンプルでリリカルなスタイルへと移行していく過程を、フロストは忠実に記録し続けました。彼はまた、アルバムの選曲にも深く関与しており、ホロヴィッツがモーツァルトのロンドをアルバムから外す決断をした際、その理由がレパートリーの重複を避けるためであったという貴重な証言を残しています。これは、フロストが単なる受動的な記録者ではなく、アルバム全体の芸術的構成に関わるキュレーターとしての役割も果たしていたことを示唆しています。後年、未発表音源がリリースされる際には、ブックレットのためのインタビューに応じるなど、彼はホロヴィッツの遺産の語り部としての役割も担い続けています。

フロストとホロヴィッツの関係は、プロデューサーとキュレーターという二つの側面を持っていました。彼は、ホロヴィッツほどのアーティストの録音は、一つひとつが歴史的な出来事であると認識していました。1965年のコンサートにおける巧みな編集から、晩年のレパートリー選定に至るまで、彼のプロダクション上の判断は、この偉大なピアニストのキャリアに関する特定の、そして永続的な物語を後世のために形成することを目的としていました。フロストにとって、プロデュースとは、音楽学的キュレーションと分かちがたく結びついた行為だったのです。彼は、歴史上最も重要なピアニストの一人が、未来の世代にどのように理解され、評価されるかを積極的に形作っていたのです。



B. グレン・グールド:奇才のビジョンを設計する


トーマス・フロストがグレン・グールドと共に行った仕事は、従来のプロデューサーの役割を完全に覆すものでした。演奏会を記録するのではなく、演奏そのものを「構築」する手助けをすること、そしてグールドの特異な方法論と知的な要求を乗り越え、テープの上でのみ存在しうる芸術的ビジョンを実現することが求められました。

フロストは、ポール・マイヤーズやアンドリュー・カズディンらと共に、コロンビア時代のグールドを支えた重要なプロデューサーの一人でした。シェーンベルクの歌曲や、1965年のベートーヴェン『ピアノ・ソナタ 作品10』全集など、画期的な録音にその名を連ねています。彼らの共同作業を象徴するのが、グールドが愛用した「軋む椅子」をめぐる逸話です。この椅子は録音中に絶えずノイズを発し、オーディオ技術者にとっては悪夢でした。しかしグールドは、この椅子を手放すことを頑なに拒みました。このジレンマに対し、フロストはベートーヴェンのソナタ集のライナーノーツで、ユーモアを交えてこう記しています。「グレン・グールドは椅子を手放すことを拒否する。コロンビア・レコードはグレン・グールドを手放すことを拒否する」。そして、コロンビアが科学の力を借りて、同じように揺れるが音は立てない椅子のレプリカを制作しようと決めた、と締めくくりました。

この「軋む椅子」のエピソードは、単なる面白い逸話ではありません。それは、フロストとグールドの関係における中心的な対立と、その見事な解決策を象徴しています。芸術家の奇矯さと、音響的純粋性という技術的目標との衝突。フロストの対応は二重の意味で巧みでした。一つは、レプリカの制作を試みるという実用的な解決策。そして、より重要なのが、物語としての解決策です。彼はライナーノーツでこの問題を隠すのではなく、むしろグールドという天才の不可分な一部として祝福しました。彼は、ノイズという技術的欠陥を、本物であることの証へと再定義したのです。

ここにはフロストの深い洞察が窺えます。彼は、グールドのようなアーティストにとっては、その創造の「プロセス」自体が「作品」であることを理解していました。奇行は芸術の障害ではなく、芸術そのものでした。この事実を受け入れることで、フロストは軋み音ごとグールドのビジョンに忠実なレコードを制作することができました。そして、そうすることによって、彼はグールドという神話をより強固なものにする手助けをしたのです。これは、プロデューサーとして、時に技術的な完璧さよりも芸術的な真実性を優先するという、高度な判断力と柔軟性を示すものでした。


C. ユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団:「フィラデルフィア・サウンド」を彫刻する


ホロヴィッツのプロデュースが孤高の個性を捉えることであり、グールドのそれが知的な論理を構築することであったとすれば、ユージン・オーマンディとフィラデルフィア管弦楽団との仕事は、「フィラデルフィア・サウンド」として知られる、巨大で統一された伝説的な音響体をステレオというメディアに翻訳する作業でした。フロストが手掛けた彼らの録音は、批評家から「映画的な鮮やかさ」と評され、オーケストラの持つ圧倒的なパワーと色彩感を聴き手のリスニングルームに届けました。

フロストは、コロンビア・レーベルにおけるオーマンディとフィラデルフィア管の多くの録音でプロデューサーを務めました。これらのレコードは、その音響的特徴によって高く評価されています。豊満でヴィルトゥオジティに溢れ、オーケストラの壮大な響きと細部の色彩が見事に捉えられています。特に、ムソルグスキーの『展覧会の絵』(ラヴェル編曲)は、その細密なディテールと「純粋な音響的壮麗さ」において、史上最高の演奏・録音の一つと見なされています。レスピーギやショスタコーヴィチといった、色彩豊かなオーケストレーションが特徴の作品においても、フロストのプロダクションはオーケストラの能力を最大限に引き出し、聴き手に強烈な音響体験を提供しました。1967年のアルバム『Greensleeves』など、数多くの名盤に彼の名がクレジットされています。

フロストがフィラデルフィア管と作り上げたサウンドは、アメリカのオーケストラ録音における一つの頂点を示すものでした。デジタル技術による分析的な明瞭さが標準となる以前の時代に、彼は豊かで力強く、そして現実よりも少しだけ壮大なサウンドを完成させました。彼の目標は、ドライで分析的な音ではなく、偉大なホールでオーケストラの生演奏を聴くような、没入感のある感動的な体験をレコードで再現することでした。そのために、彼はマイクの配置やミキシングを駆使し、オーケストラの長所を強調する意図的なサウンドステージを構築しました。彼は単に音を記録していたのではなく、聴き手への感情的なインパクトを最大化するために、音を「彫刻」していたのです。このアプローチは、アメリカを代表するオーケストラの一つの録音におけるサウンドを数十年にわたって定義し、多くの音楽愛好家の記憶に深く刻み込まれています。


V. コンソールの向こう側の音楽家:アレンジャー、そして文筆家として


トーマス・フロストの音楽家としてのアイデンティティは、プロデューサーという役割だけに収まるものではありませんでした。彼はアレンジャー(編曲家)として、また文筆家としても活動し、その多才ぶりは彼の音楽に対する包括的なアプローチを物語っています。これらの活動は、彼の仕事が単なる音響技術の操作ではなく、音楽そのものへの深い理解とコミットメントに基づいていたことを示しています。

アレンジャーとしての彼の最も特筆すべき仕事は、フィラデルフィア管弦楽団のためにJ.S.バッハの作品をいくつか編曲したことです。バロック時代の作品を、豊潤な響きを特徴とする近代的な大オーケストラのために編曲するという行為は、それ自体が高度な音楽的解釈です。これは、彼が単に演奏を記録する立場に留まらず、演奏される音楽の内容そのものに積極的に関与していたことを示しています。ヒンデミットのもとで培われた彼の作曲および理論に関する知識が、こうした創造的な作業の基盤となっていたことは想像に難くありません。

また、フロストは文筆家としてもその才能を発揮しました。彼は自身がプロデュースしたアルバムのライナーノーツを執筆することもありました。例えば、ホロヴィッツのアルバム『Horowitz the Poet』では、彼自身が解説文を寄稿しています。これは、プロデューサーとして録音した演奏について、その背景や音楽的価値を自らの言葉でリスナーに伝えるという、重要な役割を担っていたことを意味します。彼は、録音された音だけでなく、その音を聴くための文脈をも提供することで、リスナーの音楽体験をより豊かなものにしようと努めました。

フロストのアレンジャーおよび文筆家としての活動は、単なる副業ではありませんでした。それらは、彼のプロデューサーとしてのアイデンティティと不可分に結びついています。これらの活動は、レコード制作に対する彼の全体論的なアプローチを浮き彫りにします。彼にとって、レコードとは単なる音の集合体ではなく、演奏、音響、そしてリスナーに提供される文脈的情報まで含めた、一つの統一された芸術的ステートメントでした。彼は、LPやCDというメディアを、音楽そのものからそれを解説するテキストに至るまで、リスナーの体験全体を包括する一つの完成された美的オブジェとして捉えていました。この総合的なビジョンこそが、彼を純粋に技術的なプロデューサーと一線を画す、真の音楽家たらしめているのです。


VI. 遺産と影響:不滅の響き


トーマス・フロストが音楽界に残した遺産は、三つの側面に集約されます。第一に、歴史的に不可欠な録音の数々からなる偉大なカタログ。第二に、クラシック音楽プロデューサーという役割の模範を確立したこと。そして第三に、彼の仕事を継承する音楽一家の存在です。彼の影響力は、数々の受賞歴だけでなく、何世代にもわたるリスナーが伝説的アーティストの決定的名演として記憶してきた、そのサウンドそのものによって測られます。

彼の卓越性は、グラミー賞という形で具体的に証明されています。キャリアを通じて数々の賞を獲得し、特に1988年には、その年で最も優れたクラシック音楽のプロデューサーに贈られる「クラシカル・プロデューサー・オブ・ザ・イヤー」の栄誉に輝きました。これは、同業者から寄せられた最高の評価の証です。

フロストの遺産は、彼の息子であるデヴィッド・フロストによって現代に受け継がれています。デヴィッドもまた、父と同様にグラミー賞を何度も受賞するトップクラスのクラシック音楽プロデューサーとなり、この業界では極めて稀な、親子二代にわたる成功を収めました。デヴィッドは、父が手掛けた歴史的な録音を聴きながら育ち、それらを「当時の偉大な音楽家たちのアーカイブ」と見なしていたと語っています。この言葉は、トーマス・フロストの仕事が、単なる商品制作ではなく、文化遺産の保存という側面を持っていたことを示唆しています。

トーマス・フロストの最大の功績は、現代におけるクラシック音楽プロデューサーの役割そのものを定義したことにあるのかもしれません。セゴビアの不安を和らげ、グールドの実験を可能にし、ホロヴィッツのライヴ演奏を完成させ、オーマンディの響きを彫琢し、自らライナーノーツを執筆し、バッハを編曲する。これら全ての仕事を通じて、彼はプロデューサーが音楽家であり、心理学者、技術者、キュレーター、そして外交官でもあるべきだというモデルを確立しました。彼は、プロデューサーの仕事が、アーティストの唯一無二のビジョンと、それを聴く無数の聴衆との間に立つ、不可欠でありながらも、しばしば目に見えない「橋」となることだと証明したのです。この多角的で、音楽に深く関与するプロデューサー像は、彼が作り上げた一つの規範となりました。彼の遺産は、彼が残したレコード盤だけでなく、彼がそのキャリアを通じて体現した、プロフェッショナルとしての在り方そのものなのです。


トーマス・フロストのグラミー賞を受賞した主要作品


受賞年

アルバム名

アーティスト

受賞部門

特記事項

1966

Horowitz at Carnegie Hall - An Historic Return

Vladimir Horowitz

Best Classical Album

12年ぶりの歴史的カムバック・コンサートを、リハーサル音源も用いて完璧な記録として編集した画期的な作品です。

1972

Horowitz Plays Rachmaninoff

Vladimir Horowitz

Best Classical Album

ホロヴィッツのラフマニノフ解釈の神髄を捉えたスタジオ録音です。プロデューサーとしてRichard Killoughと共同受賞しました。

1978

Concert of the Century

L. Bernstein, D. Fischer-Dieskau, V. Horowitz, Y. Menuhin, M. Rostropovich, I. Stern, New York Philharmonic

Best Classical Album

カーネギーホール85周年を記念した、20世紀を代表する巨匠たちが一堂に会した歴史的イベントのライヴ録音です。

1987

Horowitz - The Studio Recordings, New York 1985

Vladimir Horowitz

Best Classical Album

晩年のホロヴィッツの、より内省的で詩的な境地を捉えたスタジオ録音です。

1988

Horowitz in Moscow

Vladimir Horowitz

Best Classical Album

61年ぶりとなった歴史的なモスクワ公演のライヴ録音です。感動的なドキュメントとして高く評価されました。

1988

N/A

Thomas Frost

Classical Producer of the Year

ホロヴィッツとの一連の成功が評価され、その年最高のクラシック・プロデューサーとして個人受賞しました。

2003

Brahms/Stravinsky: Violin Concertos

Hilary Hahn, Sir Neville Marriner, Academy of St Martin-in-the-Fields

Best Instrumental Soloist(s) Performance (with orchestra)

新世代のヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーンとの録音です。キャリアの晩年においても第一線で活躍し続けたことを証明しました。


コメント


STUDIO 407 Slogan

卓越した技術と深い音楽性を探究されるハイレベルなピアニスト、そしてすべてのクラシック音楽家の皆様へ。 STUDIO 407は、あなたの演奏表現を、単なる記録ではなく、時代を超えて輝きを放つ芸術作品へと昇華させるための専門レコーディングサービスです。

【私たちの使命】

私たちの使命は、単に音を記録することではありません。 あなたの音楽に宿る魔法、表現に込めた情熱、そして一音一音に注がれる魂のすべてを深く理解し、受け止めること。その尊い響きを、色褪せることのない最高品質の音源として結晶させ、世界中の聴衆のもとへ届けること。それこそが、私たちの存在意義です。

【私たちが提供する、揺るぎない価値】

最高峰のピアノと、理想を追求した音響空間

コンサートグランドピアノの豊潤な響きを、最も繊細なピアニシモの息遣いから情熱的なフォルテのうねりまで演奏のすべてを忠実に、そして艶やかに描き出します。

音楽的対話でビジョンを共有する、専門エンジニア

私たちのエンジニアは、技術者であると同時に、あなたの音楽の第一の聴衆であり、理解者です。クラシック音楽への深い造詣を基にした「音楽的対話」を通じてあなたの音楽的ビジョンを正確に共有し、理想のサウンドを共に創り上げるパートナーとなります。

演奏家のキャリアを支える、多様な録音プラン

​​​​世界に通用するCD・配信音源の制作、国際コンクール提出用の高品位な録音、そして大切なリサイタルの記録まで。あなたのキャリアにおける、いかなる重要な局面においても、最高のクオリティでお応えします。

あなたの才能を、世界が待っています。 さあ、その素晴らしい音楽を、世界に解き放つ次の一歩を踏み出しましょう。

レコーディングに関するご相談や質問など、どんなことでもお気軽にお問い合わせください。あなたの夢を実現するパートナーとして、私たちが共に歩んでまいります。

事業者名

STUDIO 407(スタジオ ヨンマルナナ)

運営統括責任者

酒井 崇裕

所在地

〒221-0063
神奈川県横浜市神奈川区立町23-36-407

電話番号

090-6473-0859

メールアドレス

ozzsakai@gmail.com

URL

https://www.studio407.biz

ピアノラジオ番組:二人の司会者が収録中
  • Youtube
  • Facebook
  • Instagram
  • note_logo
  • X

​© Copyright 2025 STUDIO 407 

bottom of page