瞬間を刻むか、理想を創るか、そしてAI時代の音楽制作の未来 ~フルトヴェングラーからグールド、そしてアルゴリズムへ?~
- STUDIO 407 酒井崇裕

- 9月15日
- 読了時間: 24分
はじめに
もし、グレン・グールドが現代に甦り、AIという技術を手にしたら、果たして彼はそれを創造の翼としたでしょうか。それとも、断固として拒絶したでしょうか。
技術の進歩が創造行為と不可分であることは論を俟ちません。仮にグールドがAIによる創作を行ったとして、その行為は、彼がかつて駆使した磁気テープ編集と本質的にどう異なるのでしょうか。現実には存在し得ない音楽の構築物を生み出すという点において、両者は極めて近い性質を帯びているように感じられます。
このグールドについての架空の問いは、技術と創作という実利的な関係性を超え、「オーセンティシティ(真正性)とは何か」「オリジナルとは何か」、ひいては「創造性とは何か」という根源的な問いを内包しています。
しかし、その深遠なテーマに踏み込む前に、私たちは録音史における一つの対立軸を確認しておく必要があります。それは、音楽の「一回性」を至上とする思想と、録音物を素材とする「創造的編集」を是とする思想のせめぎ合いです。この歴史は、電気録音、テープ編集、ステレオ技術、デジタル録音といった技術革新と見事に歩みを揃えています。新たな技術は、常に制作者に新たな選択肢を与えてきました。そして今、AIもまたその系譜に連なろうとしています。
そこで本稿では、録音におけるこの哲学的な立場の違いを鮮明にしてきた音楽家たち、具体的にはヴィルヘルム・フルトヴェングラー、セルジュ・チェリビダッケ、ヘルベルト・フォン・カラヤン、グレン・グールド、そして、音楽プロデューサーである、ジョン・カルショウとウォルター・レッグを取り上げ、彼らの音楽制作におけるオーセンティシティの概念を考察します。その考察を踏まえ、到来しつつあるAIと音楽制作の未来についての展望を試みたいと思います。

序論:記録された音楽における「真実性」の探求
クラシック音楽の世界は、本質的に二重の構造を持ちます。一つは作曲家によって記された「作品(スコア)」であり、もう一つは演奏家によって解釈され、特定の時間と空間で鳴り響く「演奏(パフォーマンス)」です。この二つの関係性の中に、録音技術は第三の項、すなわち「録音物(アーティファクト)」という新たな存在を挿入しました。この録音物は、単に演奏の忠実な複製なのでしょうか。それとも、それ自体が独立した芸術作品としての地位を獲得しうるのでしょうか。この問いこそが、20世紀以降の音楽美学における最も根源的な問いの一つであり、本稿が探求する中心テーマです。
この問いへの応答は、大きく二つの哲学的潮流に分かれます。一つは「記録としての編集」であり、演奏という一回限りの、二度と再現不可能なイベントの価値を至上とし、そのドキュメントとしての忠実性を何よりも重んじる立場です。ここでの編集は、演奏の本質を損なわない範囲での技術的修正(ノイズ除去など)に限定されるべきだと考えられます。もう一つは「創造としての編集」であり、スタジオを単なる録音場所ではなく、一つの楽器、あるいは理想的な音楽作品を構築するための創造の場と見なす立場です。ここでは、編集技術は積極的に駆使され、複数のテイクの断片を組み合わせることで、現実のいかなる単一の演奏をも超える完璧な芸術作品を創造することが目的となります。
この「記録」と「創造」の対立軸は、単なる制作手法の技術論に留まるものではありません。それは、音楽における「オーセンティシティ(本物らしさ)」とは何か、そして音楽作品の存在論的地位そのものを問う、美学的・形而上学的な問いへと直結しています。フルトヴェングラーのような指揮者にとって、音楽作品とは特定の時間と空間で生起する「イベント」であり、その生きた体験こそが本質でした。したがって、録音の役割はそのイベントを可能な限り忠実に「記録」することにあります。対照的に、グレン・グールドのようなピアニストにとって、音楽作品とはスコアに内在する抽象的な「構造」であり、その理想的な姿は現実のどの単一のパフォーマンスにも存在しないと考えられていました。スタジオでの「創造」は、その理想的な構造を現実化するための唯一の手段となります。このように、編集方針の選択は、「音楽作品とは何か?」という存在論的な問いに対する、それぞれの音楽家の答えそのものなのです。
本稿では、この二項対立の系譜を、歴史的文脈と音楽家の哲学を通じて深く掘り下げます。第1部では「記録」の哲学をヴィルヘルム・フルトヴェングラーとセルジュ・チェリビダッケの思想から、第2部では「創造」の哲学をグレン・グールドと偉大なプロデューサーたちの仕事から考察します。続く第3部では、これらの哲学的対立の背景にある技術的基盤の変遷を分析します。そして最終第4部では、AI(人工知知能)という新たな技術が、この歴史的な議論の枠組み自体をいかに変容させ、人間の音楽的創造性の未来をどう規定しうるのかを展望します。
第1部:一回性の刻印 ― ドキュメントとしてのレコーディング
この部では、演奏という一度きりのイベントの価値を最大化し、それを忠実に記録しようとする哲学を探求します。この思想において、編集は記録の忠実性を損なわないための補助的手段であり、演奏の生々しさや偶発性さえもが、その記録の価値を高める要素と見なされます。
第1章:フルトヴェングラーの遺産 ― 「バイロイトの第九」に聴く瞬間の芸術
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、「記録」派の哲学を代表する最も象徴的な指揮者の一人です。彼の音楽哲学の核心は、スコアを単なる音符の集合ではなく、有機的な生命体として捉え、それを自発的に見える形で生き返らせることにありました。彼は音楽の細部が「聞こえるとおりに(wie es klingt)」伝えられるべきだと信じ、生演奏が持つ力動的で直接的な性質、生きた心臓の鼓動のようなリズム、そして血気あふれる躍動感を何よりも重視しました。そのため、彼はレコードやラジオという機械的な音楽再生が、これらの本質的な要素を失わせる危険性を早くから指摘し、警鐘を鳴らしていました。
このフルトヴェングラーの哲学が最も純粋な形で結晶化した録音こそ、1951年のバイロイト音楽祭再開記念演奏会で指揮したベートーヴェンの交響曲第9番、通称「バイロイトの第九」です。この録音は、単なる名演の記録を超え、クラシック音楽録音史における一つの神話として語り継がれています。その理由は、この演奏が持つ圧倒的な「一期一会」のドキュメンタリー的価値にあります。第二次世界大戦後のドイツ文化復興の象徴的イベントという歴史的背景、そしてその場でしか生まれ得なかったであろう異様なまでの緊張感と集中力が、音の隅々にまで刻印されています。
この録音を聴くと、現代のスタジオ録音の基準では「欠陥」と見なされる要素が数多く存在することに気づきます。聴衆の咳払いや拍手、足踏みの音までもが生々しく収録されています。演奏自体にも、例えば第3楽章におけるホルンの些細なミスのような、ライブならではの偶発的な出来事が含まれています。さらに、モノラル録音という技術的制約から、音質は決して良いとは言えず、強音部では音割れも散見されます。しかし、これらの要素こそが、この録音を単なる演奏の記録から、歴史的瞬間の「証言」へと昇華させています。ミスやノイズは、その場のリアリティと、完璧ではない人間が極限の集中の中で生み出す芸術の崇高さを伝える重要な要素として機能しているのです。フルトヴェングラーにとって、録音は不完全ながらも、このような偉大な瞬間の「証拠」として後世に伝える価値を持つものでした。彼の芸術は、その瞬間にこそ立ち現れるのであり、「バイロイトの第九」はその哲学を最も雄弁に物語る遺産なのです。
第2章:沈黙の哲学 ― チェリビダッケの録音嫌悪と「音楽現象学」
フルトヴェングラーが録音を「不完全ながらも価値ある記録」として容認したのに対し、指揮者セルジュ・チェリビダッケは、よりラディカルな立場から録音というメディアそのものを拒絶しました。彼の哲学は、「記録」派の中でも特異な位置を占めます。その思想の根底には、「音楽は『無』であって言葉で語ることはできない。ただ『体験』のみだ」という、一種の「音楽現象学」とも呼べる独自の音楽観がありました。
チェリビダッケにとって、音楽とはコンサートホールという特定の音響空間の中で、演奏家と聴衆の相互作用を通じて生成される、その場限りの「体験」そのものでした。彼は、フルトヴェングラーから「(テンポは)音がどう響くかによる」という教えを受け、ホールの音響を無視したメトロノーム的なテンポ設定は無意味であると悟りました。音楽は、直接音だけでなく、ホール内で複雑に反射し、混ざり合う響き全体によって構成されます。したがって、マイクロフォンで直接音のみを収録するレコードは、この全体的で現象学的な音楽体験を根本的に裏切るものだと彼は考えました。彼が自身の録音を聴いて「エンジニアがテンポをいじった!」と疑ったという逸話は、録音された音と彼が意図した「体験」との間に存在する、埋めがたい溝を象徴しています。
彼の録音嫌悪には、レコード業界への不信感も影響していました。しかし、その核心はあくまで哲学的・美学的なものでした。彼にとって、楽譜は音楽を現実化するための単なる「手段」であり、「楽譜の中には音楽はない」という考えでした。音楽は、二つの音の空間的・時間的相関関係の中で「生起」するものであり、それは録音によって固定化(=死)され、オブジェクトとして複製されるべきものではありませんでした。
この点で、チェリビダッケの哲学はフルトヴェングラーのそれと決定的に異なります。フルトヴェングラーが録音を「過去の偉大な瞬間の証拠」として、その歴史的ドキュメントとしての価値を認めたのに対し、チェリビダッケは「今、ここでの現前」こそが音楽の全てであり、いかなるメディアもそれを代替・記録することは原理的に不可能であると考えました。前者が歴史家の視点であるとすれば、後者は純粋な現象学者の視点です。彼の思想は、「記録」という言葉が持つ多義性を浮き彫りにし、録音メディアの存在論的限界を最も厳しく突きつけたと言えるでしょう。
第2部:スタジオという名の聖域 ― 創造物としてのレコーディング
「記録」の哲学が演奏の一回性を神聖視するのに対し、「創造」の哲学はスタジオを芸術制作の場として捉え、編集技術を駆使して理想の音楽作品を構築することを目指します。この思想において、レコーディングはもはやパフォーマンスの複製ではなく、それ自体が独立した芸術作品となります。
第1章:グレン・グールドの革命 ― 編集室のピアニスト
「創造としての編集」という哲学を、そのキャリアを通じて最もラディカルに、そして最も雄弁に体現した音楽家が、ピアニストのグレン・グールドです。1964年にコンサート活動から完全に引退し、レコーディングに専念するという彼の決断は、単なる個人的な選択ではなく、音楽史における一つの宣言でした。彼にとって、聴衆の存在や一回性のプレッシャーが伴うコンサートは「時代遅れの儀式」であり、音楽の理想的な姿を追求する上での障害でしかありませんでした。
グールドの哲学の核心は、「知的作業は編集にあり、創造とはこれまで知の集積を編集(組み替え)して新たな価値を付加すること」という考えに集約されます。彼は、磁気テープによる編集技術、すなわち「カットアンドペースト」を、単なるミスの修正手段としてではなく、創造の中核をなす知的作業と位置づけました。複数のテイクから最良のパッセージを繋ぎ合わせることで、現実のいかなる単一の演奏でも到達不可能な、完璧で理想的な演奏を構築しようとしたのです。この行為は、「ありはしないもの=ネガティヴそのものこそが想像力の根源である」という彼の思想の実践でした。彼は、ライブ演奏という時間的・空間的制約から自らを解放し、音楽を彫刻のように構築可能な「オブジェクト」として扱ったのです。
この哲学の集大成が、1981年に録音されたJ.S.バッハの「ゴルトベルク変奏曲」です。デビュー盤である1955年録音の同曲が若々しい直感に満ち溢れているのに対し、この再録音盤は、彼の編集哲学が隅々まで行き渡った、緻密に計算された構築物となっています。例えば、冒頭のアリアのテンポは旧盤に比べて極端に遅いですが、それは情緒的な表現のためではなく、作品全体の構造を明確に提示するための知的な選択でした。彼は、各変奏を録音する際に必ず前の変奏のテイクをプレイバックしてテンポや表情を確認し、全体の連続性を厳密にコントロールしました。さらに、レコード用のテイクと同時に撮影された映像用のテイクを明確に区別し、それぞれのメディアに最適化された異なる芸術作品を創造しようとさえしました。
グールドにとって、スコアは絶対的なものではなく、解釈の出発点に過ぎませんでした。「どんなスコアーにも、もうひとつのスコアーがありうる」と彼は信じ、「構造は自由の邪魔をする」という信念のもと、スコアの指示を大胆に読み替えました。スタジオでの編集作業は、彼にとってスコアの裡に潜む理想の構造を白日の下に晒し、「もうひとつのスコアー」を創造する行為そのものでした。彼の革命は、レコーディングを単なる記録行為から、スコアと対等な地位を持つ独立した芸術形態へと引き上げた点にあります。
第2章:音響の魔術師たち ― プロデューサーの台頭
グレン・グールドが演奏家側から「創造」の哲学を推し進めたとすれば、その哲学を録音制作の現場で実現し、発展させたのが音楽プロデューサーたちでした。特にステレオ録音技術が普及し始めると、彼らは単なる技術者や調整役から、録音全体の芸術的ビジョンを司る「演出家」へとその役割を変貌させていきました。その代表格が、デッカ・レコードのジョン・カルショウと、EMIのウォルター・レッグです。
ジョン・カルショウの最も偉大な功績は、ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」全曲のスタジオ録音をプロデュースしたことです。このプロジェクトは、単に長大なオペラを録音するという以上の野心を持っていました。カルショウは、ステレオ技術がもたらす空間表現の可能性を最大限に活用し、オペラハウスでの上演を「記録」するのではなく、録音メディアでしか実現不可能な、全く新しい「音響による劇場」を創造しようとしました。彼は「デッカ・ツリー」として知られる独特のマイクロフォン配置を駆使して、オーケストラと歌手の間に豊かな音響的深度と明確な定位を与え、雷鳴や鍛冶の音といった効果音を演劇的に用いることで、聴き手の頭の中に壮大な舞台空間を現出させました。これは、レコーディングがライブ・パフォーマンスの代替物ではなく、それ自体が独自の価値を持つ芸術体験となりうることを証明した画期的な試みでした。
一方、EMIのウォルター・レッグもまた、多くの伝説的な録音を世に送り出した名プロデューサーでした。彼はフィルハーモニア管弦楽団を創設し、ヘルベルト・フォン・カラヤンやオットー・クレンペラーといった巨匠たちと数々の名盤を制作しました。レッグの哲学は、最高の演奏家を集め、完璧なアンサンブルを構築し、それを最高の音質で記録することにありました。
この「創造」派の系譜には、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンも位置づけられます。彼は常に最新の録音技術に強い関心を示し、それを自らの芸術表現に積極的に取り入れました。デジタル録音やCDといった新技術の黎明期に、R.シュトラウスの「アルプス交響曲」を録音したことはその象徴です。カラヤンは、録音を通じて、演奏の手に取るようなリアリティとマジック、すなわち「アウラ」を維持し、さらに増幅させることを目指しました。彼の目指した完璧なまでの音響美は、時に「人工的」と批判されることもありましたが、それはレコーディングを、生演奏とは異なる次元で理想の音響を追求する「音の彫刻」と見なす、「創造」派の哲学を明確に示しています。
これらのプロデューサーや指揮者たちの仕事は、スタジオが単なる記録の場から、音楽的ビジョンを実現するための創造の聖域へと変貌したことを示しています。彼らは音響の魔術師として、マイクロフォンとミキシング・コンソールを駆使し、永遠に聴き継がれる芸術作品を創造したのです。
表1:主要音楽家のレコーディング哲学比較
項目 | ヴィルヘルム・フルトヴェングラー | セルジュ・チェリビダッケ | グレン・グールド | ヘルベルト・フォン・カラヤン |
基本思想 | 演奏は有機的な生命体 | 音楽は一回性の「体験」 | 録音は理想を構築する芸術 | 完璧な音響美の追求 |
ライブ演奏への見解 | 芸術の最高形態 | 音楽の本質そのもの | 時代遅れの儀式、拒絶 | 重要な活動だが録音とは別 |
編集の役割 | 記録の忠実性を損なわない修正 | 原理的に拒否 | 創造の中核をなす知的作業 | 完璧な音響を実現する手段 |
理想とする録音 | 「一期一会」の緊張感を捉えたドキュメント | 存在しない | 複数のテイクから構築された完璧な演奏 | 技術の粋を集めた音の彫刻 |
代表的録音 | ベートーヴェン: 交響曲第9番 (バイロイト 1951) | (極めて少ない公式録音) | J.S.バッハ: ゴルトベルク変奏曲 (1981) | R.シュトラウス: アルプス交響曲 (1982, 初のCD) |
第3部:技術という名のミューズ ― イノベーションはいかに哲学を形成したか
これまで論じてきた「記録」と「創造」という二つの哲学的対立は、決して真空地帯で生まれた観念的なものではありません。それは、録音技術の進化という物理的・技術的基盤の変遷と、分かちがたく結びついています。技術の革新は、単に音質を向上させるだけでなく、音楽制作の可能性そのものを拡張し、それによって新たな美学や哲学を生み出す土壌となりました。
第1章:アコースティックの限界から磁気テープの解放へ
録音技術の黎明期、すなわち19世紀末から1920年代半ばまでのアコースティック録音(機械式録音)の時代において、「創造としての編集」という思想は生まれようがありませんでした。この時代の録音は、演奏家がラッパ状の集音器に向かって演奏し、その空気振動が直接、蝋や樹脂でできた円盤(または円筒)に針で溝を刻むという、完全に物理的なプロセスでした。電気を一切介さないこの方式では、録音後の編集は不可能であり、コピーを作成することさえ極めて困難でした。したがって、この時代の録音は、必然的にパフォーマンスの断片的な「記録」以外の何物でもありえませんでした。
1925年、マイクロフォンを使用した電気的レコーディング・システムが導入されると、状況は一変します。音質は飛躍的に向上し、より繊細なニュアンスやダイナミクスを捉えることが可能になりました。この技術的進歩は、当初メディアに懐疑的だったフルトヴェングラーのような音楽家たちに、録音の芸術的可能性を再評価させるきっかけとなりました。しかし、録音媒体が依然としてディスクへの直接カッティングであったため、編集の自由度は依然として著しく低かったです。
決定的な転換点となったのは、1940年代に実用化され、戦後急速に普及した磁気テープの登場です。磁気テープは、それまでの録音技術にはなかった二つの画期的な特性を持っていました。第一に、録音した内容を消去して再録音が可能であること。第二に、テープを物理的にカミソリで切り、別のテープと繋ぎ合わせる(編集する)ことが可能であることです。この「編集」という概念の誕生こそが、レコーディングを単なる「記録行為」から「創造行為」へと変貌させる、技術的・思想的な爆発の起爆剤となりました。グレン・グールドが称揚した「カットアンドペースト」の哲学は、この磁気テープという技術的基盤なしには決して成立し得なかったのです。音楽家は初めて、時間という不可逆的な流れから解放され、理想の演奏を自在に構築する手段を手に入れたのです。
第2章:ステレオ、デジタル、そして「完璧な音」という幻想
磁気テープが「創造」の扉を開いた後も、技術革新は音楽制作の哲学に影響を与え続けました。1951年に導入されたLP(長時間レコード)は、それまでのSPレコードが片面数分しか収録できなかったのに対し、片面20分以上の収録を可能にしました。これにより、交響曲やオペラといった長大な作品を楽章間で中断することなく鑑賞する文化が生まれ、聴き手も演奏家も、作品の全体的な「構造」に対する意識をより強く持つようになりました。
1956年頃から本格化したステレオ録音は、音楽に左右の広がりという「空間」の次元をもたらしました。これは、ジョン・カルショウのようなプロデューサーに、単に音を並べるだけでなく、音響空間そのものを演出し、デザインするという新たな創造の可能性を与えました。
そして、1970年代末に登場したデジタル録音と、それに続くCD(1981年発売)の普及は、「完璧な音」という理想をさらに加速させました。アナログ録音では不可避であったテープヒスのような、メディア自体が発する「ノイズ」が原理的に除去されたことで、音楽は完全な無音の背景から立ち上がることが理想とされました。編集も、物理的なテープの切り貼りから、コンピュータ上での非破壊的で精密な作業へと移行し、より精緻な「創造」が可能になりました。
この一連の技術進化の過程は、単に音質を向上させただけでなく、音楽における「エラー」や「ノイズ」の定義そのものを変化させました。アコースティック録音時代には不可避な現実であった演奏のミスや背景雑音は、磁気テープの登場によって「修正可能な欠陥」へと変わりました。そしてデジタル時代には、メディア由来のノイズさえもが排除の対象となりました。このプロセスを通じて、フルトヴェングラーの録音における「ミス」や「ノイズ」が持つドキュメンタリー的価値は、相対的に後退していきました。完璧にコントロールされた透明な音響空間が標準となるにつれ、グールドやカラヤンが追求したような、構築された「創造物」としてのレコーディングが、主流の価値観として強化されていったのです。技術が、美学を規定した典型的な例と言えるでしょう。
表2:録音技術の進化と編集哲学への影響
時代/技術 | 技術的特徴 | 編集の可能性 | 主流となった哲学/美学 |
アコースティック録音 | 機械式吹込、電気不使用、コピー困難 | ほぼ不可能 | 純粋な記録: パフォーマンスの断片的な保存 |
電気録音 | マイク使用、音質向上 | 依然として困難(ディスク直刻) | 忠実な記録: より高音質なドキュメントの追求 |
磁気テープ | 再録音、物理的な切貼りが可能 | 革命的向上: テイクの合成、ミスの修正 | 「創造」の時代の幕開け: 編集による完璧な演奏の構築 |
LP/ステレオ | 長時間収録、空間表現(左右の定位) | 磁気テープ編集が前提 | 構造美と音響空間の演出: 作品全体の構築、音によるドラマ |
デジタル/CD | ノイズレス、非接触再生、データ化 | デジタル編集による非破壊・高精度化 | 完璧な音響という理想: ノイズの完全な排除、透明な音空間 |
AI | データ学習、自動生成、音源分離・修復 | プロセス自体の自動化・再定義 | 境界の融解: 「超・記録」と「ポスト創造」の出現 |
第4部:AI時代の音楽制作 ― AIは「記録」と「創造」の境界を融解させるか
21世紀に入り、AI技術の発展は、これまで論じてきた「記録」と「創造」の二項対立を根底から揺るがし、その境界線を融解させる可能性を秘めています。AIは、これまでの技術革新の延長線上にある単なるツールなのでしょうか、それとも音楽制作のパラダイムそのものを変えるゲームチェンジャーなのでしょうか。その影響を考察します。
第1章:現代のAI音楽技術概論
AI時代の音楽制作は、主に機械学習、特にディープラーニングの技術に基づいています。LSTM(長短期記憶)、GAN(敵対的生成ネットワーク)、Transformerといったモデルを活用し、膨大な量の既存の楽曲データを学習することで、メロディ、ハーモニー、リズム、さらには楽曲構造のパターンを統計的に理解します。この学習済みモデルを用いて、ユーザーが与えた指示(プロンプト)に基づき、全く新しい音楽を自動的に生成することが可能となっています。
その能力は多岐にわたります。テキストプロンプトからボーカル付きの楽曲を生成するツール(Suno AI, Udioなど)、オーケストラ曲の作曲に特化したAI(AIVAなど)、既存の楽曲を異なるスタイルにアレンジする機能、さらには録音された音源から特定の楽器やボーカルを分離する音源分離技術など、その応用範囲は急速に拡大しています。これらの技術は、音楽制作のプロセスを劇的に効率化し、専門知識のない人々にも作曲の門戸を開く「音楽制作の民主化」を推し進めています。
第2章:AIによる「超・記録」と「ポスト創造」
AI技術は、「記録」と「創造」という従来の哲学の枠組みを、それぞれ極限まで押し広げ、そして越境させます。
まず、「記録」の哲学は、AIによって「超・記録」とでも呼ぶべき新たな段階へと至ります。AIの高度な音源分離・修復技術を用いれば、例えばフルトヴェングラーの「バイロイトの第九」のような歴史的録音から、ホールノイズや聴衆の咳払いを完璧に除去し、各楽器の音を分離して理想的なバランスで再構築することが可能になります。これはもはや、元の録音を忠実に再現する「記録」ではありません。それは、録音当時には技術的に不可能だった「ありえたかもしれない理想的な記録」を、現代の技術で創造する行為です。ここに、「記録」と「創造」の境界は完全に融解します。さらに、故・美空ひばりの歌声をAIが学習し、新曲を歌わせたプロジェクトのように、故人の演奏スタイルや音色を学習したAIが、彼らが演奏したことのない楽曲を演奏することも可能になります。これは、存在しなかったパフォーマンスの「記録」を創造するという、存在論的なパラドックスを生み出します。
次に、「創造」の哲学は、「ポスト創造」の領域へと踏み出します。AIは、グレン・グールドの全録音を学習し、彼が一度も弾かなかったベートーヴェンのピアノ・ソナタを、彼の独特のスタイルで演奏させることができます。これは、一見すると人間の創造性を模倣し、拡張する行為に見えます。しかし、AIの生成物が本質的に学習データ(=過去の人間が生み出した創造物)の統計的な組み合わせである以上、それは真に新しいものを生み出す「創造」なのでしょうか、それとも極めて高度な「複製」や「パッチワーク」に過ぎないのでしょうか。この問いは、著作権やオリジナリティという概念の根幹を揺るがします。AIが生成した音楽が、学習元の楽曲と類似していた場合の権利の所在は、現在も大きな法的・倫理的課題となっています。
第3章:人間の「不完全性」の価値 ― AI時代における創造性の再定義
AIが技術的に完璧で、かつ多様なスタイルの音楽を瞬時に生成できるようになったとき、人間の音楽家に残された独自の価値とは何でしょうか。その答えは、AIがまだ完全には模倣できない領域、すなわち人間の内面性に求められることになるでしょう。AIには深みのある感情表現や芸術的なニュアンスの再現には限界があるとされ、生成された音楽には、それを生み出すに至った「意図」や「哲学」が欠如しています。
人間の創造性は、その不完全性にこそ宿るという逆説的な議論が、ここで重要性を増してきます。人間の音楽家は、その身体的な制約(例えば、ピアニストの手の大きさや指の長さ)の中で独自の奏法を編み出します。また、その人が歩んできた人生、そこから得られた趣味嗜好や美学といった「偏り」こそが、芸術における「個性」の源泉となります。AIが生み出す、統計的に最適化された「優等生的な表現」に対し、人間ならではの予測不可能な「ノイズ」、意図的な規則からの「逸脱」、そして論理を超えた飛躍こそが、新たな芸術的価値を持つようになる可能性があります。
この文脈において、これからの音楽制作は、AIと人間の「共創」が新たな標準となるでしょう。AIを、アイデアの源泉や、時間のかかる技術的作業を代行させる効率化のツールとして活用し、人間は最終的な芸術的判断、作品に込める哲学的コンセプトの構築、そして物語性の付与といった、より高次の創造的作業に集中することになります。
この変化は、音楽制作における「プロセス」と「プロダクト」の関係性を根本的に問い直します。グレン・グールドにとって「創造」とは、膨大なテイクを録音し、それを緻密に編集するという時間のかかる「プロセス」の末に生まれる「プロダクト(レコード)」でした。しかし、AIはテキストプロンプト一つで、数秒後には完成品に近い「プロダクト」を生成し、その間の「プロセス」を不可視化、あるいはブラックボックス化します。これにより、芸術的価値の源泉は、作品を「作る技術(プロセス)」から、どのような作品を生成させたいかを構想し、言語化する「問いを立てる能力(プロンプト)」へと移行する可能性があります。写真家が「日常のどこを・どの瞬間を切り抜くか」という選択に独自性を見出すように、AI時代の音楽家の創造性とは、無限の音楽的可能性の中から、意味のある問いを立て、AIの出力を批評的に選択・編集(キュレーション)し、そこに独自の哲学的文脈を与える能力として再定義されるのかもしれません。
結論:再創造されるオーセンティシティ ― AI時代の音楽鑑賞と創作
クラシック音楽のレコーディングを巡る「記録」と「創造」の対立は、録音技術の歴史を通じて、音楽における「真実性」の意味を問い続ける、ダイナミックな弁証法でした。フルトヴェングラーが捉えようとした「瞬間の真実」から、グレン・グールドが構築した「構造の真実」まで、それぞれの哲学は、その時代の技術的可能性と深く結びつきながら、録音というメディアの芸術的地位を絶えず問い直してきました。
AIの登場は、この歴史的な二項対立の前提そのものを覆し、新たなパラダイムを提示します。AIは、存在しなかった演奏の「記録」を創造し、人間の意図を部分的に介しながらも、自律的に見える形で「創造」を行います。これにより、「記録」と「創造」はもはや対立概念ではなく、相互に浸透しあい、区別が困難なほど流動的な関係性へと変容します。AIによって修復されたフルトヴェングラーの録音は、記録でありながら創造であり、AIが生成した「グールド風」の演奏は、創造でありながら過去の記録の再構成です。
この新たな時代において、「本物らしさ(オーセンティシティ)」の意味もまた、再創造されるでしょう。それはもはや、「人間による一回性の生演奏」の忠実な記録や、「人間が完璧に構築した演奏」というプロダクトそのものに宿るのではありません。オーセンティシティは、AIとの対話のプロセスの中に、すなわち、人間がどのような問いを立て、どのような選択を行い、AIの出力にどのような哲学的意味を与えるかという、「人間的な意図、選択、そして批評性」の中にこそ見出されるようになります。
AIと共創する未来において、人間の創造的な役割は、技術の計算能力や生成速度を凌駕することではなく、技術では立てられない問いを立て、意味を付与し、物語を紡ぐことにあります。アルゴリズムという新たなミューズとの対話は、我々が何を美しいと感じ、何を価値あるものと見なすのかを、改めて問い直すでしょう。テクノロジーは鏡のように、人間の創造性の本質そのものを、これまでになく鮮明に映し出し続けるのです。




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