「一回性の奇跡」か「構築された完璧」か? ―AI時代にあらためて考えるクラシック音楽録音
- STUDIO 407 酒井崇裕

- 2 日前
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はじめに:クラシック音楽録音:録音媒体がもたらした音楽的真実の分断
クラシック音楽の歴史において、20世紀という時代は、音楽が「一回的な出来事」から「保存可能なオブジェクト」へと決定的な変容を遂げた時代として刻まれています。録音技術の登場は、単なる情報の記録手段を超え、音楽の存在論的定義そのものを揺るがす強力な装置へと進化しました。この技術的変遷の過程で、演奏家や聴衆の間には、音楽の真実性をどこに求めるべきかという点において、本質的に対立する二つの思想的立場が形成されました。
一方は、音楽を「今、ここ」における現象として捉え、時間の不可逆性と連続性を重視する「一回性」の立場です。セルジュ・チェリビダッケやグリゴリー・ソコロフに代表されるこの思想は、録音という行為が音楽の魂を固定化し、死文化させてしまうものであると批判します。彼らはライブ演奏における身体性と、その場の空間で生じる響きの重なりこそが音楽の本質であると主張します。
他方は、録音技術を積極的に活用し、実演では到達不可能な理想の音響像を再構築しようとする「構築された完璧さ」の立場です。グレン・グールドやヘルベルト・フォン・カラヤンは、編集やデジタル処理を駆使し、人間の不完全性を乗り越えた「自律的な作品」としての録音を追求しました。
本レポートでは、これら二つの対立する思想が、録音技術の歴史的発展とどのように関連してきたかを考察します。
そして、AI時代に突入した今日、この2つの思想的な立場の違いがさらに先鋭化していくことが予想されます。これまでは少なくとも演奏行為というのがまず在り、それをどう扱うかという議論でしたが、AI技術は演奏行為すら無くても音楽的と感じられる制作物が無限に生成できます。この技術革新は私たちに「真正性とは何か」「価値とは何か」というテーマをこれまで以上に鋭く突きつけるに違いありません。本稿では、この点についても触れて考察します。


第一章:技術史の変遷と音楽受容のパラダイムシフト
録音技術の歴史は、そのまま「音楽の断片化」と「再構成の可能性」の歴史と言い換えることができます。初期の蓄音機から磁気テープ、そしてデジタル録音への移行は、音楽の聴き方だけでなく、音楽そのもののあり方を変えてきました。

年代 | 技術的革新 | 音楽的・美学的影響 |
1900年代 | 蓄音機・アコースティック録音 | 演奏の「断片」の記録。再生時間の制約による楽曲の短縮。 |
1920年代 | 電気録音(マイクの導入) | 繊細な音色の再現。演奏家の身体的プレゼンスの強調。 |
1940年代後期 | 磁気テープ録音の普及 | 編集(スプライシング)の開始。時間の連続性の人工的な操作。 |
1950年代 | ステレオ録音・LPレコード | 空間情報の再現。「家庭でのコンサートホール」体験の創出。 |
1980年代 | コンパクトディスク(CD)・デジタル録音 | ノイズの完全な排除。完璧な再現性の追求。 |
2020年代 | AI音源分離・空間オーディオ | 過去の録音の解体と再構築。リスナーの主体的介入の深化。 |
第二次世界大戦後の磁気テープの普及は、音楽制作に革命をもたらしました。テープを切断し、繋ぎ合わせる「編集」技術の登場により、演奏者はミスを修正し、複数のテイクから最良の部分を選択することが可能となりました。これが「構築された完璧さ」という思想の技術的基盤となりました。
一方で、デジタル録音の登場は、アナログ的な温かみや偶発的なノイズを「排除すべき欠陥」へと追いやりました。ヘルベルト・フォン・カラヤンはCDの登場を「奇跡」と呼び、背景ノイズのない完璧な静寂こそが音楽の新しい基盤になると予見しました。しかし、この「完璧な静寂」こそが、チェリビダッケやソコロフが危惧した「音楽の死」を象徴するものでもありました。
第二章:現象学としての音楽 ― 「一回性」を擁護する立場

セルジュ・チェリビダッケ:音と意識の統合
セルジュ・チェリビダッケにとって、音楽は物理的な「音」そのものではなく、音と人間の意識、そして空間が特定の瞬間に統合される「現象」でした。彼の音楽観は、音楽が時間という次元においてのみ生存可能であることを強調します。
チェリビダッケは、録音を「音楽の缶詰」と呼び、断固として拒絶しました。彼によれば、音楽が音楽であるためには、倍音が空間でどのように響き、前の音と次の音がどのように有機的に結びつくかという、極めて繊細な物理的プロセスが必要です。録音媒体は、空間の複雑な情報を平坦化してしまうため、そこから立ち現れるのは音楽の模造品に過ぎないと彼は考えました。
特に彼は、音楽的構成における「クライマックス」を、拡張から圧縮へと転じる重要な回転軸と定義しました。この転換は、演奏者と聴衆が共有する「今」という時間軸の中でしか体験できず、編集によって繋ぎ合わされた不連続な時間の上では、その必然性が失われてしまいます。チェリビダッケにとって、音楽は常にその場で新しく構築されるものであり、再現不可能な一回性の中にこそ真実が宿っていたのです。
グリゴリー・ソコロフ:ライブという儀式の真正性
現代のピアニスト、グリゴリー・ソコロフもまた、スタジオ録音を極端に嫌い、リリースされる音源をライブ録音に限定しています。彼にとってコンサートは一期一会の聖なる瞬間であり、そこでの緊張感、聴衆との空気の共有、さらには楽器の微細なノイズさえもが音楽体験の一部を構成します。
ソコロフは、スタジオでの編集が「人工的」であり、音楽の生命力を奪うと批判しています。かつては実演の方が録音よりも優れているのが当たり前でしたが、現代では「修正された完璧な録音」が基準となり、実演がそれに劣るように感じられる逆転現象が起きていると彼は指摘します。彼がライブ録音にこだわるのは、それが「死滅した音楽の抜け殻」ではなく、生きた記憶の呼び戻しとして機能するからです。

第三章:スタジオの美学 ― 「構築された完璧さ」を追求する立場

グレン・グールド:コンサートホールの放棄と創造的編集
チェリビダッケとは対照的に、グレン・グールドは1964年にコンサート活動を完全に放棄し、録音スタジオへと引きこもりました。彼はコンサートホールを、聴衆の面前で演奏することに伴う心理的ストレスが音楽の構造的理解を妨げる場所であると考えました。
グールドは、録音を「実演の代替品」ではなく、「一次的なテキスト」として再定義しました。彼にとって編集は、ごまかしではなく、映画のモンタージュと同様の創造的行為でした。彼は複数のテイクから一小節単位で理想的な演奏を繋ぎ合わせ、実演では不可能な「構造的明晰さ」を備えた音楽を創り出しました。
また、グールドはリスナーが自宅のオーディオ機器で音量や音質を調整する行為さえも、解釈への積極的な参加であると肯定しました。技術による音楽の脱神秘化と、聴き手の主体的な介入こそが、音楽を特権的な専門家の手から解放し、真の「恍惚」をもたらすと信じていたのです。
ヘルベルト・フォン・カラヤン:メディア・アーティストとしての指揮者
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、録音技術を自身の理想とする「美の追求」のための装置として最大限に活用しました。彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて膨大な録音を残しましたが、その多くは最新の技術を駆使したスタジオ録音でした。
カラヤンはCD開発にも深く関わり、そのノイズのない特性と広大なダイナミックレンジを称賛しました。彼にとっての「完璧さ」とは、オーケストラの全パートが理想的なバランスで鳴り響き、一点の曇りもない滑らかな音響が構築されている状態を指します。彼は映像制作にも着手し、カメラアングルや編集を通じて自身の指揮を神格化された芸術作品へと変容させました。ここでの音楽は、実演のドキュメントではなく、メディアを通じて完成される総合芸術としての性格を帯びていました。

第四章:音楽哲学における「オーラ」と「真正性」
これらの二つの立場は、芸術哲学における古典的な論争と深く共鳴しています。
ヴァルター・ベンヤミンは、複製技術が芸術作品の「オーラ」――その作品が「今、ここ」に存在する一回性――を解体すると論じました。チェリビダッケの思想は、まさにこの失われゆくオーラを救出しようとする試みでした。一方、ベンヤミンは複製技術によるオーラの喪失が、芸術を特権階級の儀礼から解放し、大衆的な鑑賞を可能にするという側面も指摘しました。グールドの思想は、この「技術による解放」を極限まで押し進めたものと言えます。
また、テオドール・アドルノは、技術によって磨き上げられた完璧な録音が、聴き手の批判的な思考を奪い、受動的な聴取を促すと批判しました。アドルノによれば、録音によって「完璧な結果」だけが固定されると、音楽が生成される苦闘のプロセスが見えなくなり、単なる音響的な美を消費するだけの態度を生んでしまうというのです。カラヤンの作り上げた完璧な音響像は、アドルノの視点からは、ある種の大衆操作に近いものとして映った可能性があります。

第五章:AI技術の影響と録音思想の未来
現代において、AI技術はこれら二つの思想的対立に新たな局面をもたらしています。
AIによる音源分離技術は、かつては不可能であった「過去のモノラル録音からの特定楽器の抽出」を可能にしました。これにより、歴史的な一回性の記録を素材として解体し、現代の感覚でリミックスして再構築するという、グールド的な「完璧さ」の追求がさらに加速しています。一方で、AIは劣悪な音質の中に埋もれていた巨匠たちの微細なニュアンスを救出する手段としても期待されています。
また、AI生成音楽の登場は、「人間の創造性の真正性」を問い直すきっかけとなっています。大手レコード会社などは、AIによる無断模倣からアーティストを守るための技術を導入し始めていますが、これは「音楽の価値は生成プロセスの真正性に宿るのか、それとも最終的な音響的結果に宿るのか」という、かつての対立の延長線上にある問いと言えます。

おわりに:音楽の価値を形成する「相克」
クラシック音楽録音における「一回性」と「構築された完璧さ」の対立は、どちらかが正しく、どちらかが誤っているというものではありません。むしろ、この二つの思想が火花を散らすことによって、現代におけるクラシック音楽の豊かな価値が形成されてきました。
チェリビダッケやソコロフの「一回性」への執着は、音楽が持つ肉体的な熱量や、その瞬間の精神的な昇華を私たちに思い出させます。一方、グールドやカラヤンの「完璧さ」への追求は、人間の知性が到達し得る最高の音響的理想を提示しています。
録音技術がどれほど進化しても、音楽を聴くという行為が、他者の精神的な営みとの邂逅であることに変わりはありません。録音という「不自然な不変性」と、実演という「自然な消滅性」の間の緊張感こそが、クラシック音楽を永遠に古びない芸術たらしめているのです。私たちは、完璧なスタジオ録音に知的な法悦を感じると同時に、ライブ録音のノイズや揺らぎの中に「生きている人間」の気配を感じ取り、感動する。この矛盾した二つの欲求こそが、音楽という現象が持つ真の生命力なのです。





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