伝説的のピアニストを物理的に蘇らす技術 ―Zenph Re-Performance技術とスタインウェイ「SPIRIO」への統合
- STUDIO 407 酒井崇裕

- 6 日前
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更新日:3 日前
はじめに
スタインウェイのショールームを訪れたことのある方なら、ホロヴィッツやグレン・グールドといった往年の巨匠たちの映像がディスプレイに映し出され、その演奏と完全に同期するかのように、目の前のピアノが自動で鍵盤を奏でる光景を目にした経験があるかもしれません。すでにこの世を去ったピアニストたちの演奏が、いかにして自動演奏ピアノのデータとして再構築されているのか──一度は不思議に感じたことがあるのではないでしょうか。
その背景には、録音された音源から演奏そのものを解析・再生成する「Zenph Re-Performance」と呼ばれる革新的な技術があります。2014年、スタインウェイ社はこの技術を開発したZenph Studiosを買収し、その成果として自動演奏ピアノ《SPIRIO》を発表しました。この技術は、単なる“名演の再生装置”にとどまるものではありません。ピアノ教育のあり方や、遠隔演奏といった現代的な課題と可能性をも内包する、きわめて未来志向のプラットフォームでもあります。
本稿では、「伝説的ピアニストを物理的に蘇らせる」とも言うべきZenph Re-Performance技術が誕生した背景と、その技術的な要点を辿りながら、そこに透けて見えるスタインウェイの未来戦略を概観していきます。

序論:音楽再現のパラダイムシフトと再演奏(Re-Performance)の概念
音楽の録音と再生の歴史は、エジソンの蓄音機以来、音響振動を物理的または電子的に記録する「ティンパニック(鼓膜的)」な再現手法に支配されてきました。この伝統的なアプローチは、マイクロフォンで音波を捉え、それを媒体に刻み、スピーカーから再生することで、過去の音響イベントを模倣しようとするものです。
しかし、21世紀初頭、Zenph Studios(以下、Zenph社)が提唱した「Re-Performance(再演奏)」技術は、この録音の概念を根本から覆すパラダイムシフトをもたらしました。再演奏とは、録音された音波そのものを再生するのではなく、その音を生じさせた「演奏者の動作データ」を抽出し、現代の楽器を用いて物理的に再現する技術です。これは、20世紀初頭に隆盛を極めた自動演奏ピアノ(プレイヤー・ピアノ)の系譜に連なるものでありながら、デジタル信号処理と高度なアルゴリズムを用いることで、かつてない精度での再現を可能にしました。本報告では、Zenph社の革新的な技術メカニズムを詳細に検討し、その技術がいかにしてスタインウェイ&サンズ社の自動演奏システム「SPIRIO(スピリオ)」へと統合されるに至ったか、その経緯と意義を包括的に解析します。

Zenph Re-Performance技術の核心的メカニズム
Zenph Re-Performance技術の本質は、既存のオーディオ録音から「演奏の意図」を逆算し、高解像度の演奏記述データへと変換するプロセスにあります。この技術は、単なるノイズ除去や音質の改善(リマスタリング)とは一線を画すものであり、録音という結果から演奏という原因を抽出する、一種の「逆問題」の解決策といえます。
オーディオからデータへの変換プロセス
Zenph社のソフトウェア・アルゴリズムは、録音された波形をミリ秒単位の精度で解析し、各音符のピッチ、発音タイミング、音量(ベロシティ)、持続時間、そしてペダル操作の深さを特定します。このプロセスにおいて最も困難とされるのが、複数の音が重なる和音の中から個々の音を分離する「音源分離」と、それぞれの音の強弱を正確に見極める「パラメータ推定」です。
高度なスペクトル解析とピッチ検出: アルゴリズムは、複雑な倍音成分の中から基本周波数を特定し、ポリフォニック(多声的)なテクスチャを個々のノートイベントに分解します。
打鍵のニュアンスの数値化: 録音された音の立ち上がりや減衰を分析することで、ピアニストがハンマーを弦に当てた際の速度(ハマー・ベロシティ)を推定します。これにより、単なる「音符の記録」ではなく、個々の指が加えた圧力やタッチの陰影までもがデータ化されます。
ペダリングの物理的解析: ダンパーペダルやシフトペダルの動きは、音の共鳴や音色の変化として録音に残ります。Zenphの技術は、これらの音響的特徴からペダルの位置を連続的なデータとして復元します。
高解像度演奏記述の構築
抽出されたデータは、標準的なMIDI(127段階の解像度)を遥かに超える、数千段階の解像度を持つ独自のデジタルファイルに保存されます。このプロセスは、色あせて傷ついた古い写真を解析し、元の場面を最新のカメラで撮影し直すことに例えられます。元の録音状態が悪く、ピアノが調律されていなかったとしても、抽出されるデータは「理想的な状態での演奏の設計図」となるため、それを現代の完璧に調整された楽器で再現することが可能になります。
Zenph Re-Performanceが扱うデータの次元と解像度は以下の通りです。
タイミング: ミリ秒(ms)単位の絶対時間で制御され、リズムの微細な揺れ(ルバート)を捕捉します。
打鍵強度(ベロシティ): 1000段階以上のダイナミックレベルを持ち、ハンマーが弦に接触する瞬間の速度を逆算します。
ペダリング: 256段階以上の連続的位置制御を行い、ハーフペダル等の動作を復元します。
アーティキュレーション: 音の持続時間や離鍵の速度、ダンパーの戻り動作までもが制御対象となります。


歴史的録音の現代的蘇生:主要プロジェクトの解析
Zenph技術の有効性は、Sony Masterworksとの共同プロジェクトによって実証されました。これらのプロジェクトは、録音技術の限界に縛られていた歴史的演奏を、現代のオーディオフォーマットで「再録音」することを可能にしました。
グレン・グールド:1955年版「ゴールドベルク変奏曲」の再演奏
2006年、Zenph社はグレン・グールドのデビュー録音である1955年の「ゴールドベルク変奏曲」を解析し、トロントのグレン・グールド・スタジオにおいて再演奏を行いました。この録音は、グールドのハミング(鼻歌)やモノラル録音特有の音質の薄さが課題でしたが、Zenphのプロセスにより、純粋なピアノ演奏データのみが抽出されました。このプロジェクトではヤマハの「Disklavier Pro」が使用されましたが、これは当時、高解像度の演奏データを忠実に物理的打鍵へと変換できる唯一の市販楽器であったためです。結果として得られた録音は、グールドが現代のスタジオで演奏したかのような透明感と立体感を持って蘇りました。
アート・テイタム:Piano Starts Here - Live at the Shrine
ジャズ・ピアノの巨匠アート・テイタムの1949年の録音も、Zenphによって蘇生されました。このプロジェクトでは技術的な修正も加えられています。オリジナルの録音は再生速度がわずかに遅かったため、Zenphは解析過程でこれを修正し、テイタムが実際にはより速いテンポで演奏していたことを明らかにしました。また、録音テープに存在したノイズや不具合を修正し、欠落していた演奏の一部を復元することにも成功しています。
セルゲイ・ラフマニノフ:Rachmaninoff Plays Rachmaninoff
ラフマニノフの1921年から1942年にかけての録音を再現したプロジェクトでは、音響的な考古学とも言えるアプローチが取られました。この再演奏には、ラフマニノフ自身がかつて愛用した可能性がある1909年製のスタインウェイ・コンサート・グランドを修復した楽器が使用されました。古いSP盤のノイズの背後に隠されていたラフマニノフの驚異的なタッチの軽やかさや、深いルバートが、現代の録音として鮮明に蘇りました。

スタインウェイによるZenph社の買収と産業的統合
Zenph Re-Performanceの技術は、最終的にはスタインウェイ&サンズ社の製品エコシステムへと完全に取り込まれました。
買収の経緯と目的
2014年、スタインウェイ社はZenph Studiosを買収しました。この買収の主目的は、同社が開発中であった次世代自動演奏システム「SPIRIO」のための高品質なコンテンツ制作能力を確保することにありました。スタインウェイ社は、自社の最高級ピアノに最適化された「究極の再演奏データ」を生成できるZenphの技術を手に入れることで、ハードウェアとソフトの両面から市場をリードする戦略をとりました。
人材とプロセスの継承
Zenph社の主要な開発者であったアナトリー・ラーキン博士を含む技術チームは、スタインウェイ社へと移籍しました。ラーキン博士は、Zenph時代に培ったソフトウェアと精密な編集ノウハウを活かし、現在はニューヨークのスタインウェイ本社において「Steinway Immortals(スタインウェイの不死鳥たち)」と呼ばれる歴史的録音のデジタル復元プロジェクトを統括しています。

Steinway SPIRIOの技術的アーキテクチャ
2015年に発表された「Steinway SPIRIO」は、Zenphの解析技術と、自動演奏ピアノの先駆者であるウェイン・スタンケ氏のハードウェア技術が融合した集大成です。
ハードウェア技術の統合
SPIRIOの駆動メカニズムは、ウェイン・スタンケ氏が開発したシステムをベースにしています。スタンケ氏は、Bösendorfer SEシステムやヤマハのDisklavier Pro開発にも関与した、この分野の第一人者です。スタインウェイ社は2014年に彼の技術を統合し、ピアノの製造段階から高度なソレノイドとセンサーを組み込むことで、後付けユニットではない一体型のシステムを構築しました。
SPIRIOの高解像度スペック
SPIRIOは演奏のニュアンスを保存するために独自の高解像度フォーマットを採用しています。

ハマー速度制御: 1020段階の解像度を持ち、繊細なピアニッシモから強大なフォルティッシモまでを再現します。
ハマーサンプリング: 1秒間に800回の頻度で計測を行い、打鍵のエネルギーを正確に捕捉します。
ペダル位置制御: 256段階の連続制御により、ハーフペダル等の微妙な操作が可能です。
ペダルサンプリング: 1秒間に100回の頻度でペダルの動きを捉えます。
録音・編集機能を持つ「SPIRIO | r」では、非接触型の光学式ハマーセンサーが採用されており、ピアノのアクションを妨げることなく速度を直接計測します。また、リアルタイムで誤差を補正する閉ループ制御技術も導入されています。
「Steinway Immortals」:Zenph技術の直接的応用
SPIRIOの最大価値は、そのハードウェア性能以上に、Zenph技術によって制作された「歴史的演奏ライブラリ」にあります。スタインウェイ社はこれを「Steinway Immortals」と呼び、物故した巨匠たちの演奏を、あたかも本人がその場で弾いているかのように自宅のピアノで再現できることを最大の特長としています。
制作プロセスは、Zenph Re-Performanceのワークフローを直接継承しています。ホロヴィッツやルービンシュタインなどの歴史的録音をソースとし、ソフトウェアが抽出した生データを専門チームがオリジナルの音響録音と一小節ごとに聴き比べ、打鍵の強さやペダルのニュアンスを修正・補完します。最終的なデータはSPIRIO専用のフォーマットに最適化され、世界中のオーナーに配信されます。

競合比較:Steinway SPIRIO vs. Yamaha Disklavier Pro
Zenph技術が初期にヤマハのDisklavier Proを採用していた事実は、現在のSPIRIOとの比較において重要です。
ヤマハのDisklavier Proは、ハマーセンサーに加えてキーセンサー(離鍵速度の計測用)を搭載しており、演奏者の指の動きをより包括的に捉えることができる構成になっています。これに対し、スタインウェイのSPIRIOは「ハマー速度」の計測に特化しています。スタインウェイ社の主張によれば、ピアノの音色を決定付ける最終的な物理量はハマーの速度であるため、ハマーセンサーのみで十分な再現性が得られるとしています。
ヤマハが汎用的なMIDIプラットフォームとして進化を遂げたのに対し、スタインウェイは「録音から再演奏までを自社で完結させる垂直統合型のラグジュアリー体験」を目指しました。ブランドが持つ芸術的権威とZenphの独自ライブラリを統合した点が、市場におけるスタインウェイの独自の地位を築いています。

産業的・音楽的意義
Zenph技術とSPIRIOの統合は、音楽産業に複数の影響を及ぼしています。
教育および研究への貢献
SPIRIO | rの録音・編集機能は、教育現場に大きな変化をもたらしました。学生は自分の演奏をiPad上で視覚的に分析・編集することができます。また、リモート演奏配信技術により、遠隔地にいる教授のタッチを自宅のピアノでリアルタイムに再現することも可能になりました。

録音産業の再定義
従来、過去の音源は「修復」されるものでしたが、Zenphとスタインウェイのアプローチは過去の演奏を「現在のイベント」として再演することです。これにより、100年前のピアニストと現代の楽器奏者が共演するような新しい形のアルバム制作も行われています。
真正性に関する哲学的論争
技術が完璧に近づくほど、「演奏の真正性」をめぐる議論も深まっています。演奏者の肉体から切り離されたデータによる再現に疑念を呈する声や、オリジナルの不完全さを除去することが芸術的価値を損なうのではないかという懸念もあります。しかし、Zenph社の考え方は、録音という「フィルター」を取り除き、演奏家が本来意図していた音楽的真実を抽出することこそが真の保存であるというものです。

結論
Zenph Re-Performance技術のSteinway SPIRIOへの応用は、人類が音楽的遺産をいかにして次世代へ継承するかという問いに対する一つの回答を提示しました。

技術的成熟: 2005年の実験段階から、スタインウェイ社による買収を経て、現在の高解像度エコシステムに至るまで、技術は着実に精度を高めてきました。
コンテンツの力: スタインウェイ社は、ハードウェアのスペック競争を、Zenphの技術を用いた「Steinway Immortals」という唯一無二のコンテンツによって制しました。
持続可能性: 専門家チームがスタインウェイ社内でアーカイブをデジタル化し続けている事実は、この技術が同社の将来戦略の根幹であることを示しています。
Zenph Re-Performanceが切り拓いた「演奏のデジタル記述」という道は、現在スタインウェイ社の手によって、音楽史の新しい一章を刻み続けています。その技術的DNAは、現代の最高級自動演奏ピアノの音色の中に確実に息づいています。





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