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ピアニストのタッチの謎:音色変化はどう生じるか 知覚統合による音色生成モデルから考える

  • 執筆者の写真: STUDIO 407 酒井崇裕
    STUDIO 407 酒井崇裕
  • 7月14日
  • 読了時間: 21分

更新日:7月17日

はじめに

「ピアノは猫が鍵盤の上を歩いても同じ音がする」といった、タッチと音色の関係については、ある種の謎として議論がされてきました。本稿では、物理学者の主張する「単一変数仮説」すなわち、鍵盤が「レットオフ(離脱)」ポイントを過ぎて押し下げられると、ピアニストはハンマー機構を直接制御できなくなり、したがって奏者が弦の振動に影響を与えられる唯一の変数は、ハンマーが弦を打つ最終的な速度のみであるという主張と、ピアニストや音楽教育家が言う、鍵盤への触れ方、すなわちタッチの「質」が、単なる音量とは独立して、結果として生じる音色を著しく変化させ、「温かい」「歌うような」「硬い」「打楽器的な」といった多様な音を生み出すという主張との隔たりに焦点を当てます。

結論的に言えば、両者の隔たりは、現象を捉える枠組みの違いが生み出すものであり、時間的に先行する付随音を含む音響事象複合体と人間の知覚プロセスを考慮した場合、タッチによる音色変化は、主観的な印象でもなければ錯覚でもないことが科学的な根拠を伴って示されます。

肝となるのは、近年の認知神経科学におけるパラダイムシフトです。それは脳を感覚入力の受動的な特徴検出器としてではなく、能動的な予測エンジンとして捉える見方であり、この仕組みと、ピアノ演奏における、時間的に先行する付随的な音響事象が謎を解くカギとなります。

ピアニストにとって、タッチはその芸術的表現と深く関わっており、このモデルを理解することが、演奏する上で、ひとつのヒントとなることが期待されます。

ピアニストのタッチ

音色は単にハンマーの速度の関数であるという単純な物理モデルに対し、本稿では予測符号化と時間的統合に根差した心理音響学的モデルを紹介します。異なるタッチ(例:指と鍵盤の接触、鍵盤が底に達する際の衝撃)によって生じる付随的な音響事象が、時間的な※プライムとして機能すると主張します。これらのプライムは、同化および対比のメカニズムを通じて、主音の知覚を調整します。「押す」タッチは柔らかい先行音を生成し、同化作用によってより「温かい」音色として知覚されます。「叩く」タッチは鋭い先行音を生成し、対比作用によってより「明るい」音色として知覚されます。このプロセスは身体化された認知の枠組みの中で捉えられ、ピアニストの表現意図が、これらの精密な音響系列を生成するために必要な特定の運動行為に変換され、それによって聴取者の知覚的・感情的経験が形成されるのです。

※ある刺激(プライム)によって、その後の認知や行動が影響を受ける現象のこと。これをプライミング効果ともいう(音響心理学)



1. 聴覚知覚の基礎と音色の多次元性


1.1 聴覚経路:機械的振動から神経表象へ


人間の聴覚系は、音波という物理的現象を神経インパルスへと変換し、脳が解釈可能な情報へと加工する精緻なシステムです。音の知覚プロセスは、空気の振動が外耳(耳介および外耳道)によって集められることから始まります。この振動は中耳に伝達され、鼓膜を振動させます。鼓膜に接続された耳小骨(ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨)は、この振動を増幅し、空気から内耳の液体へのインピーダンス・マッチングを効率的に行う役割を担います。この伝達系(伝音系)の機能により、音エネルギーの損失が最小限に抑えられます。

振動は最終的に内耳の蝸牛に到達します。蝸牛は、音響信号を神経信号に変換する感音系の中心です。蝸牛内部の基底膜は、その場所によって異なる周波数に最も敏感に反応するトノトピー(周波数局在)構造を持ちます。高周波音は基底膜の入り口(基部)を、低周波音は奥(頂部)を最大に振動させます。この機械的な周波数分析作用は、複雑な音波をその構成要素であるスペクトル成分に分解する物理的なフーリエ変換器として機能します。基底膜の各部位の振動は、コルチ器に存在する有毛細胞を刺激し、この機械的変形が電気信号へと変換(トランスダクション)されます。この神経インパルスが聴神経を介して大脳皮質の側頭葉にある聴覚中枢へと送られ、最終的に「音」として知覚されるのです。この生理学的基盤、特に蝸牛における周波数分解能は、音色のスペクトル的側面を知覚するための根源的なメカニズムであり、聴覚系が単なる音の受信機ではなく、高度な分析装置であることを示しています。

耳の構造
出典:須山補聴器ホームページより

1.2 音色の定義:「音の色彩」を超えて


音色は、音の高さ、大きさ、持続時間という基本的な知覚属性を除いた、音の「質」を規定する属性です。米国音響学会(ASA)は音色を「同じ音の高さ、同じ大きさで同様に提示された2つの音が、同一でない場合に、聴取者がそれらを異なると判断できる聴覚感覚の属性」と定義しています。この定義が示すように、音色は単一の特性ではなく、極めて複雑で多次元的な知覚属性の集合体です。実際、音色は単一または複数の音源から生成され、知覚的に一つの聴覚イメージへと融合・混合された事象から生じます。


1.3 知覚のマッピング:音色空間と音響的相関


音色の多次元性を定量的に研究する主要な手法として、「音色空間」モデリングがあります。このアプローチでは、多次元尺度法(MDS)が用いられます。実験では、聴取者が様々な楽器音などのペアの知覚的な非類似度を評価します。MDSアルゴリズムは、これらの評価データに基づき、知覚的な距離が幾何学的な距離に対応するような低次元の空間を構築します。この空間内で近くに配置された音は知覚的に類似しており、遠くに配置された音は異なって聞こえます。

この音色空間の各次元は、音の物理的な特性、すなわち「音響記述子」と相関づけることで解釈されます。これまでの研究で、音色知覚に重要ないくつかの記述子が同定されています。


  • スペクトル重心 (Spectral Centroid): 音の「明るさ」に対応し、スペクトル全体のエネルギー分布の重心を示します。高周波成分のエネルギーが相対的に大きいほど重心は高くなり、音は明るく、クリアに聞こえます。例えば、オーボエはフレンチホルンよりもスペクトル重心が高いです。この知覚的属性は、前述した蝸牛の基底膜における周波数分析の空間的パターンを脳が直接的に解釈した結果と見なすことができます。

  • アタックタイム (Attack Time): 音が立ち上がり、最大振幅に達するまでの時間です。アタックタイムが短いほど、音は打楽器的に、鋭く知覚されます。

  • スペクトルフラックス (Spectral Flux) およびスペクトル不規則性 (Spectral Irregularity): 時間経過に伴うスペクトル形状の変化や、偶数次倍音と奇数次倍音のバランスなどを示す記述子です。これらは音の「豊かさ」や「空虚さ」といった、より微細な知覚的ニュアンスに関与します。


これらの研究は、音色が単なる主観的な「色彩」ではなく、定量化可能な物理的特徴と体系的に関連付けられた、構造化された知覚属性であることを明確に示しています。



2. 予測する脳:聴覚情景分析と知覚的補完


2.1 脳機能の統一理論としての予測符号化


近年の認知神経科学におけるパラダイムシフトは、脳を感覚入力の受動的な特徴検出器としてではなく、能動的な予測エンジンとして捉える見方を提示しました。予測符号化(Predictive Coding)理論によれば、脳は世界の内部モデルを絶えず生成し、次に来る感覚入力を予測しています。知覚とは、この予測と実際の感覚信号との間の不一致、すなわち「予測誤差」を最小化する※ベイズ推論のプロセスであると見なされます。予測された事象は神経活動を抑制し、予測に反する予期せぬ事象は強い予測誤差信号を生成します。この信号は皮質階層を上向きに伝播し、内部モデルを更新するために利用されます。

※観測されたデータに基づいて、ある事象の確率を推定する方法


2.2 予測誤差の指標としてのミスマッチ陰性電位(MMN)


この予測誤差信号の電気生理学的な指標として、ミスマッチ陰性電位(MMN)が知られています。MMNは、脳波(EEG)計測における事象関連電位(ERP)の一成分です。古典的なオドボール課題(標準刺激の系列の中に、まれに逸脱刺激を提示する)において、逸脱刺激の提示後100-250msに観測される陰性電位として定義されます。

重要なのは、MMNが単なる物理的な変化に対する応答ではなく、学習された規則性の違反に対する応答であるという点です。このことは、リズムのような複雑な規則の違反や、さらには予測された音の「欠落(omission)」によってもMMNが誘発されるという事実によって強力に支持されています。物理的な刺激が存在しないにもかかわらず脳が応答することは、単純な神経順応では説明できず、脳が能動的に未来を予測していることの決定的な証拠となります。


2.3 トップダウン予測の証拠としての聴覚錯聴


トップダウンの予測が知覚をいかに強力に形成するかは、様々な聴覚錯聴によって劇的に示されます。


  • 聴覚的連続性錯覚 (Auditory Continuity Illusion): この錯覚では、短い音(トーン)が大きな雑音によって中断されても、その音は連続して聞こえ続けるように知覚されます。これは、最初の音に基づいて脳の内部モデルがその音の継続を予測し、介在する雑音を「音が止まった証拠」ではなく「継続している音を覆い隠す妥当なマスカー」として解釈するために生じます。脳は、感覚入力の忠実な表現よりも、一貫性のある連続的な聴覚対象の知覚を優先するのです。

  • 音声の知覚的補完 (Perceptual Restoration of Speech): 同様の現象が音声知覚でも見られます。雑音に置き換えられた欠落音素が、聴取者によって「補完」されるのです。脳機能イメージング研究によれば、この補完は単なる認知的な推測ではなく、実際に聴覚皮質において「欠落した音に対応する神経活動」が観測されます。この活動は、より高次の言語野(前頭皮質など)からのトップダウン予測によって駆動されていることが示唆されています。


これらの錯聴は、聴覚系の「失敗」ではなく、むしろ雑音が多く不完全な環境下で、一貫性のある世界を知覚するために最適化された脳の効率的な機能の現れです。脳は、音源が一時的に遮蔽されても存在し続けるという「最良の推定」を行います。安定した聴覚対象を形成するというこの原理は、聴覚情景分析の根幹であり、後述するピアニストのタッチによる知覚操作の基盤となるメカニズムです。



3. 時間的近接性効果:聴覚判断における同化と対比


3.1 同化と対比の定義


刺激を連続的に判断する際に、先行する文脈が後続の刺激の知覚に影響を与える現象は、古くから心理物理学の分野で研究されてきました。その代表的なものが同化と対比です。


  • 同化 (Assimilation): ターゲット刺激が、単独で提示された場合よりも、先行する(あるいは同時に存在する)文脈刺激とより類似しているように知覚される現象です。知覚される差異が縮小します。

  • 対比 (Contrast): ターゲット刺激が、単独で提示された場合よりも、文脈刺激とより異なっているように知覚される現象です。知覚される差異が誇張されます。


3.2 知覚的結果を決定する重要因子


知覚が同化と対比のどちらに向かうかは、いくつかの要因によって決定されます。


  • 刺激の不一致度: 最も重要な要因は、文脈刺激とターゲット刺激の物理的な差異の大きさです。両者の差異が小さい場合、同化が生じやすいです。一方、差異が大きい場合、対比が生じやすいです。対比が生じるためには、差異がある種の「閾値」を超える必要があるとされます。

  • 時間的近接性: 連続刺激の場合、効果は2つの音が時間的に近いほど強くなります。例えば、母音の知覚において、A-X-Bという系列でターゲット母音Xは、時間的により近い音(AまたはB)が同じ音韻カテゴリーに属する場合は同化し、異なるカテゴリーに属する場合は対比することが示されています。

  • カテゴリー知覚と注意: 聴取者の内部的なカテゴリー(音声における音素など)や、注意の向け方、処理方略(類似性へのプライミングか、非類似性へのプライミングかなど)も結果に影響を与えます。差異が存在するにもかかわらず、それに気づかなかったり注意が向けられなかったりすると、同化が生じることがあります。


3.3 予測符号化による同化と対比の解釈


前節で述べた予測符号化の枠組みは、これら同化と対比という一見相反する現象を統一的に説明するモデルを提供します。


  • モデル確認としての同化: ターゲット刺激が、文脈刺激によって生成された予測に非常に近い場合、予測誤差は小さくなります。脳は、内部モデルを最小限の更新で維持しようとし、新しい情報を既存のモデルに統合します。その結果、類似性の知覚、すなわち同化が生じます。これは一種の知覚的な「平滑化」と見なせます。

  • モデル更新としての対比: ターゲット刺激が予測を大きく裏切る場合、大きな予測誤差(MMNに相当する神経的な「驚き」の信号)が生成されます。この強力な誤差信号は不一致を際立たせ、差異の知覚を誇張させます。これが対比であり、知覚的な「先鋭化」と見なせます。


この解釈によれば、同化と対比は2つの独立したプロセスではなく、感覚入力と内部予測の比較という単一の根源的な計算から生じる2つの異なる出力となります。生成される予測誤差の大きさが、最終的な知覚的結果を決定するのです。



4. ピアノ音の脱構築:物理学者とピアニストの論争の解決


4.1 歴史的二項対立:ハンマー速度 対 ピアニストのタッチ


ピアノの音色制御をめぐっては、長年にわたる論争が存在してきました。


  • 物理学者の見解: 純粋に機械的な観点から見ると、鍵盤が「レットオフ(離脱)」ポイントを過ぎて押し下げられると、ピアニストはハンマー機構を直接制御できなくなります。したがって、奏者が弦の振動に影響を与えられる唯一の変数は、ハンマーが弦を打つ最終的な速度のみです。これは「単一変数仮説」として知られています。この見解によれば、同じ音量(ハンマー速度)で知覚される音色の違いは錯覚に過ぎないということになります。

  • ピアニストの見解: 一方、ピアニストや音楽教育家は、鍵盤への触れ方、すなわちタッチの「質」が、単なる音量とは独立して、結果として生じる音色を著しく変化させ、「温かい」「歌うような」「硬い」「打楽器的な」といった多様な音を生み出すと、何世紀にもわたって主張してきました。



4.2 実証的証拠:付随的音響事象の役割


この論争を解決する鍵は、ピアノの「一音」が単一の音響事象ではないと認識することにあります。高忠実度録音とモーションキャプチャシステムを用いた研究では、同一のハンマー速度で異なるタッチによって生成された音が分析されました。これにより、2種類の重要な「付随音」が同定されました。


  • 指-鍵盤音 (Finger-Key Sound): 指が鍵盤表面に接触する際に生じる音です。この音の特性はタッチによって劇的に変化します。「叩く」タッチ(鍵盤の上から叩きつける)では、鋭く、ノイズが多く、打楽器的な音が生じ、これは主音の20-30ms前に発生することがあります。「押す」タッチ(指を鍵盤上に置いた状態から始める)では、はるかに柔らかく、不明瞭な音が生じます。

  • 鍵底音 (Key-Bottom Sound): 鍵盤がその可動域の底(鍵底)に到達した際に生じる音です。この衝撃の強さや主音に対するタイミングも、ピアニストのタッチによって変化しうります。


4.3 付随音の知覚的顕著性


決定的に重要なのは、これらの付随音が知覚的に意味を持つという点です。実験において、音楽家は同じハンマー速度で演奏された「押す」タッチと「叩く」タッチの音を確実に聴き分けることができました。しかし、先行する指-鍵盤音をデジタル処理で除去すると、この聴き分け能力は消失しました。これは、付随的なノイズこそが、知覚されるタッチの質の違いを生み出す主要な手がかりであることを示しています。

この発見は、物理学者とピアニストの論争が、分析対象とする「オブジェクト」のフレーミングの問題であったことを明らかにします。物理学者は「孤立した弦の振動」を分析していたのに対し、ピアニスト(そして聴取者)は、時間的に先行する付随音を含む「音響事象複合体全体」に反応していたのです。解決の鍵は、分析の時間窓を知覚の時間窓と一致させることにありました。「ノート」とは単なる楽音ではなく、[ノイズ + 楽音] という系列なのです。



5. 統合:知覚的統合による音色生成モデル


5.1 聴覚プライムとしての付随音


本稿の中心的なモデルとして、付随音(指-鍵盤音、鍵底音)が、主音の直前にマイクロ秒単位で生じる「聴覚プライム」として機能することを提案しています。これらのプライムは、後続のターゲット音(主音)の知覚をバイアスする予測的な文脈を確立します。これは、先行する音楽和音が後続の感情語の処理に影響を与える情動プライミングと類似したプロセスです。


5.2 同化-対比フレームワークの適用


このモデルは、プライムの音響特性と第3節で述べた原理に基づき、知覚的結果を予測します。


  • 「叩く」タッチ(対比): 「叩く」タッチは、鋭く、打楽器的な、スペクトル的にノイジーな指-鍵盤の先行音を生成します。この音は、倍音構造を持つ楽音である主音とは音響的に「大きく異なります」。プライムとターゲットの間のこの大きな不一致は、対比を生じさせる知覚的閾値を超えると仮定されます。結果として生じる予測誤差は、主音のアタックの知覚を先鋭化させ、「明るい」「打楽器的な」、あるいは「硬い」といった音色として知覚されます。

  • 「押す」タッチ(同化): 「押す」タッチは、より柔らかく、不明瞭で、非打楽器的な先行音を生成します。この音は、主音の自然な立ち上がりと音響的に「より類似しています」。この小さな不一致は、対比の閾値を下回ります。脳は、この柔らかい先行音を主音に統合、すなわち「同化」し、知覚されるアタックを効果的に平滑化します。これにより、「温かい」「丸い」「歌うような」といった音色として知覚されます。


5.3 提案モデル:タッチから音色への心理音響学的連鎖


このモデルは、ピアニストのスキルを再定義します。彼らは単に音高、音量、持続時間を制御しているだけではありません。ミリ秒単位で音響事象の微細な時間構造を能動的かつ精密に彫琢しているのです。彼らの音色制御は、聴取者の予測的な脳を操作して望ましい知覚を構築するという、高度に洗練された応用心理音響学の一形態と言えます。以下の表は、このモデルを体系的にまとめたものです。

タッチの種類

主要な物理的動作

付随的な音響事象

付随事象のタイミング

仮説的知覚メカニズム

結果として知覚される音色

押す (Pressed)

指が鍵盤表面と接触を保ち、持続的な圧力を加える。鍵盤の下降を高度に制御。

低振幅で立ち上がりの緩やかな指-鍵盤音。最小限で遅延した鍵底音。

主音の開始より数ミリ秒先行。

同化 (Assimilation): 柔らかく非打楽器的な先行音は、主音の立ち上がりと音響的に類似。差異が小さいため、知覚的統合が生じ、知覚されるアタックが平滑化される。

「温かい」「丸い」「歌うような」「豊かな」

叩く (Struck)

指がある程度の高さから高い初速で鍵盤を打つ。打鍵後の鍵盤下降の制御は少ない。

鋭く打楽器的な、広帯域スペクトルを持つ指-鍵盤ノイズ(「タッチ先行音」)。明瞭でより大きな鍵底音。

主音の開始より20-30ms先行。

対比 (Contrast): 鋭くノイジーな先行音は、主音と音響的に非類似。差異が大きいため、予測誤差が生じ、知覚されるアタックの鋭さが誇張される。

「明るい」「打楽器的な」「硬い」「薄い」



6. 身体化された認知と表現意図の優位性


6.1 メカニズムから意味へ:身体化の役割


ここまでの議論は、効果が「どのように」生み出されるかに焦点を当ててきました。本節では、「なぜ」そうなるのかという問いに答えます。身体化された認知(Embodied Cognition)理論は、認知が身体から切り離された抽象的なプロセスではなく、私たちの物理的な感覚運動経験によって根本的に形成され、基礎づけられていると主張します。音楽においては、これは知覚と行為が密接に結びついていることを意味します。音楽を聴くことは脳の運動野を活性化させ、私たちがどのように動くかは、私たちがどのように知覚するかに影響を与えます。


6.2 表現の身体化:ピアニストのジェスチャー


ピアニストの物理的な動き(ジェスチャー)は、単に鍵盤を押し下げるという目的のための手段ではありません。それは、彼らの音楽的・表現的意図の物理的な現れです。特定の感情(例:優しさ、怒り)を伝えたいという意図は、全体的な身体の姿勢や運動パターンに変換されます。「優しい」意図は、よりゆっくりとした、連結した動きと「押す」タッチにつながり、「怒りの」意図は、鋭く速い動きと「叩く」タッチにつながる可能性があります。

この関連は恣意的なものではありません。ピアニストの身体は、練習を通じて、特定の物理的行為のセットが、特定の音響的手がかりの系列([付随ノイズ] + [主音])を生み出し、それが聴取者において望ましい知覚的・感情的応答を誘発することを学習しているのです。この観点から見ると、音色は、メロディーやハーモニーとは独立して、感情を伝達するための重要なチャネルとなります。


6.3 ループを閉じる:演奏者の意図から聴取者の知覚へ


これまでの議論を統合すると、因果連鎖は次のように描けます。


  1. 表現意図(例:「このパッセージを優しく演奏する」)

  2. 身体化された運動プログラム(全身を含む特定の学習されたジェスチャー、最終的に「押す」タッチとなる)

  3. 音響的結果(柔らかく非打楽器的な付随音とそれに続く主音の生成)

  4. 聴取者の知覚メカニズム(予測的な脳が、同化作用を通じて柔らかいプライムを統合する)

  5. 最終的な知覚的・感情的経験(聴取者は「温かく」「丸い」音色を知覚し、それは演奏者の当初の「優しい」意図と一致する)


ピアノ教師が「温かい」音を引き出すために「ベルベットを撫でるように弾きなさい」といった比喩を用いることがあります。純粋に物理的な観点からは、これは「偽りのない嘘(white lie)」かもしれません。しかし、身体化された認知の観点からは、この指示は、同化作用を引き起こすための音響的先行音を確実に生み出す特定の運動プログラム(ゆっくりとした、制御された、圧力ベースのタッチ)を誘発するための非常に効果的な方法です。この比喩が機能するのは、ピアニストの物理的な行為を、望ましい心理音響学的結果を達成するように巧みに形成するからです。一見非科学的な比喩は、実際には複雑な心理音響学的イベントの連鎖をショートカットする、優れた身体化された教授法なのです。



ノイズの側面から見たピアニストと素人のタッチの差を定量的に観測できる図(筆者による実験)。


左から:

①ピアニストの通常のピアノ演奏

②:ピアノに細工をして打弦せず、打鍵ノイズ(指と鍵盤の接触ノイズとキーが棚を叩くノイズ)だけ出るようにしたピアノでピアニストが演奏

③:②の細工したピアノで素人が打鍵したノイズ

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素人の演奏は音も汚いが、音量もピアニストとは違うことがグラフで明瞭にわかります(ピークで16dB弱のレベル差)。興味深いことに、トレーニングを積んできたピアニストは、わざと汚いタッチにしようとしても、もはや素人のような打鍵に戻れないようです。つまり、ピアノの前に座ったとたん、ピアニストのタッチになる。動作が身体に染みついているようです。その場に居た出音を聞いた複数のピアニストの感想も興味深い。素人の打鍵ノイズは音量が小さい場合でもピアニストのものに比べ、汚く聞こえる。すなわち、音量だけでなくノイズの質感も違う。ピアニストに限った場合でも、楽音に含まれる打鍵ノイズの割合が違っていると思われ、クリーン・タッチ~パワー・プレイまで、そのピアニストが持っている響きの違いに関係していると推察できる。



7. 結論と今後の展望


7.1 統合モデルの要約


本稿の主要なテーゼを再度述べます。ピアニストによる音色制御は、錯覚ではなく、測定可能な実在の現象です。それは、機械力学に反して弦の振動物理を変化させることによってではなく、微細な時間スケールでの付随的な音響事象を巧みに操作することによって達成されます。これらの事象はプライムとして機能し、聴取者の予測的な聴覚システムを利用して、同化と対比を通じて最終的な知覚を形成するのです。


7.2 広範な示唆


本研究の知見は、音楽教育、演奏実践、さらにはバーチャル楽器の設計(これらのニュアンスに富んだタッチ依存の付随音が欠けているためにしばしば無機的に聞こえる)に示唆を与えます。また、音楽知覚を孤立した音で研究するのではなく、時間的にダイナミックで豊かな文脈の中で研究することの重要性を強調するものです。


7.3 期待される今後の研究の方向性


  • 脳機能イメージング研究: 具体的なfMRIおよびEEG実験の実施。例えば、EEG研究(脳波Electroencephalography: EEGを用いて脳の活動を研究する分野)では、標準音を予測するようにプライミングされた聴取者に対し、「叩く」タッチの音(大きな予測誤差を生成すると仮定される)に対してはMMN様の応答を探し、「押す」タッチの音に対してはそれが見られないことを検証できます。fMRI研究では、これらの異なるタッチタイプに応答して、予測ハブ(前頭前野など)や聴覚皮質の活動を調べることができます。

  • クロスモーダル研究: 視覚情報の役割の調査。ピアニストが「叩く」ジェスチャーを用いるのを「見る」ことが、たとえ付随音が除去されていても、聴取者に明るい音を聞くようにプライミングするかどうかの検証。これは視覚的プライミングと聴覚的プライミングの相互作用をテストすることになります。

  • 計算論的モデリング: 予測符号化と同化・対比メカニズムを組み込んだ聴覚系の計算モデルを開発し、実際の音響入力に基づいて異なるピアノタッチの知覚効果を再現できるかどうかの検証。



おわりに

本稿では「ピアノは猫が鍵盤の上を歩いても同じ音がする」といった、タッチと音色に関するある種の謎に関して、認知神経科学の視点から光を当てました。そして、物理学者とピアニストの論争が、分析対象とする枠組みの違いにある可能性について述べてきました。その違いとは、すなわち「孤立した弦の物理的な振動現象」と「時間的に先行する付随音を含む音響事象複合体全体と人間の認知過程」であると言えます。全ての謎を完全に解明するには至らないかも知れませんが、一定の説得力があるものと思います。そして、自覚的であるか無意識的であるかに関わらず、ピアニストが演奏するにあたって、一つのヒントを提供できたのではないかと思っています。タッチは、そのピアニストのスタイルの一つとも言えますが、芸術表現と不可分に深く関わっていることは言うまでもありません。



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事業者名

STUDIO 407(スタジオ ヨンマルナナ)

運営統括責任者

酒井 崇裕

所在地

〒221-0063
神奈川県横浜市神奈川区立町23-36-407

電話番号

090-6473-0859

メールアドレス

ozzsakai@gmail.com

URL

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