ピアノの最低音A0。その音は、物理的に存在するのか? ―「幻の基音」の知覚境界とは ―
- STUDIO 407 酒井崇裕

- 4 日前
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はじめに
グランドピアノの前に座り、88鍵ある鍵盤の左端、最低音(A0)を静かに、しかし深く押し込んでみてください。「ズーン」という深く、重く、腹の底に響くような低音が空間を支配します。私たちはその音を、疑いようもなく「低いラ(27.5Hz)」として聴いています。
しかし、ここに驚くべき物理学的真実があります。
あなたが聴いているその「27.5Hz」という音の成分は、物理的にはそこには存在しません。
正確に言えば、空気中に放射されているその成分はあまりにも微弱で、本来なら聴こえないはずのレベルです。それにもかかわらず、なぜ私たちは明確な「音程」を感じるのでしょうか?
今回は、最新の調査報告書に基づき、グランドピアノの低音域に隠された「物理学的な矛盾」と、それを解決するために私たちの脳が行っている「高度な演算処理」について、数式と定量的なデータを交えて徹底的に解剖します。

序論:12.5メートルの波長 vs 2.7メートルの響板
まず、冷徹な物理学の数字からこの問題を捉え直してみましょう。
音とは空気の波です。周波数が低くなればなるほど、その波の長さ(波長 λ)は長くなります。音速 cを約343m/sとした場合、周波数fと波長の関係は λ= c/fで表されます。
ピアノの最低音A0の基本周波数は 27.5Hz です。これを式に当てはめると、

となり、A0の波長は約12.5メートルにも及びます 。
一方で、世界最大級のフルコンサートグランドピアノ(スタインウェイD型など)であっても、音を響かせる心臓部である「響板(Soundboard)」の長さは 約2.7メートル に過ぎません 。
音響物理学の一般則として、平面バッフルなしに低音を効率的に放射するためには、放射体のサイズが波長の少なくとも 1/4 程度必要であるとされています 。12.5メートルの1/4は 約3.1メートル です。
つまり、フルコンサートグランドピアノでさえ、A0の基音を物理的に再生するには、サイズが決定的に不足しているのです。
この「サイズの不一致」が引き起こすのが、「音響的短絡(Acoustic Short-circuiting)」 と呼ばれる現象です 。響板が前に動いて空気を圧縮しようとしても、波長があまりに長すぎるため、空気は圧縮されずに響板の縁を回り込んで裏側の負圧部分へと逃げてしまいます。その結果、エネルギーは相殺され、27.5Hzの音波は空中に放射されることなく消滅します。
第1章:弦の物理学と「インハーモニシティ」の罠
響板の話に進む前に、音源である「弦」そのものが抱える物理的なジレンマについても、数式を用いて掘り下げてみましょう。
メルセンヌの法則と現実の乖離
弦の振動数 f を決定するのは、以下のメルセンヌの法則です 。

ここで、Lは弦長、Tは張力、 𝜇は線密度(単位長さあたりの質量)です。
27.5Hzという超低音を実現するには、本来であれば非常に長い弦 L が必要です。しかし、ピアノの筐体サイズには限界があります。そこでピアノ設計者は、弦に銅線を何重にも巻きつけて線密度 𝜇 を極端に大きくし、無理やり周波数を下げています 。
剛性が生む「非調和性」
しかし、太くなった弦はもはや理想的な「糸」ではなく、硬い「棒(Bar)」としての性質を帯び始めます。これが 「インハーモニシティ(Inharmonicity:非調和性)」 という現象を引き起こします。倍音(部分音)の周波数が、理論的な整数倍から高周波側へズレてしまうのです。
このズレを表す式は以下の通りです 。



具体的にどうなるかというと、A0の第16倍音(本来なら4オクターブ上のA=440Hz付近)は、この係数の影響で半音以上も高いピッチ(シャープ)にズレてしまいます 。
つまり、ピアノの低音弦から放たれる音は、音楽的な「倍音(ハーモニクス)」ではなく、不協和な成分を含んだ「雑多な部分音の集合体」に近いのです。

第2章:響板の限界 ——「50Hz」の壁
では、ピアノの響板は一体「どこから」まともに音を出し始めるのでしょうか?
報告書にある「モーダル解析(Modal Analysis)」のデータが、その答えを明確に示しています。響板が一体となって最も効率よく振動する「第1モード(Fundamental Mode)」の周波数は、フルコンサートグランドピアノにおいて 約49Hz〜62Hz の範囲にあります 。
Conklinの研究 (Steinway D class): 49Hz (G1付近)
Wogramの研究: 62Hz (B1付近)
このデータが意味する事実は衝撃的です。
A0 (27.5Hz) から概ね F#1 (46.2Hz) までの音域において、響板は物理的に「機能不全」の状態にあります。この領域では、響板は共振を利用できず、強制的に駆動される「剛性制御(Stiffness-controlled)」領域にあります。インピーダンスのミスマッチが激しく、基音成分の放射効率はほぼゼロに等しくなります。
報告書のスペクトル分析データによれば、A0を弾いた時の基音成分(27.5Hz)のエネルギーレベルは、最強の倍音成分と比較して -20dB 〜 -30dB (エネルギー比で1/100〜1/1000)しかありません 。これは実質的に「聴こえない」レベルであり、ノイズフロアに埋もれています。


第3章:脳内でのピッチ再構築 ——「幻の基音」のメカニズム
物理的には「基音不在」であるにもかかわらず、なぜ私たちはA0を「ド」でも「レ」でもなく「ラ」として認識できるのでしょうか?
ここで登場するのが、聴覚心理学における 「幻の基音(Phantom Fundamental)」、別名「ミッシング・ファンダメンタル」現象です 。

残差ピッチとパターン認識
私たちの脳は、耳から入ってきた複雑な周波数成分の中から「周期性」を見つけ出す優れたパターン認識能力を持っています。例えば、A0を弾いた時、基音(27.5Hz)は聴こえなくても、以下のような高次倍音群は(インハーモニシティによるズレを含みつつも)しっかりと耳に届いています。
第3倍音(約82.5Hz)
第4倍音(約110Hz)
第5倍音(約137.5Hz)...
脳はこれらの数字の列を見て、瞬時に「最大公約数」を計算します。「これらは全て27.5Hzの整数倍に近い。ならば、元の音(親)は27.5Hzであるはずだ」と推論するのです 。この脳内で計算されたピッチを 「残差ピッチ(Residue Pitch)」 または 「バーチャルピッチ」 と呼びます。私たちがピアノの低音で聴いているのは、耳で拾った空気の振動ではなく、脳が倍音のデータからリアルタイムで合成した「仮想の音」 なのです 。
脳を騙す調律の技「ストレッチ・チューニング」
さらに興味深いことに、インハーモニシティによって倍音が理論値より高めにズレているため、脳が算出するバーチャルピッチも本来の27.5Hzよりわずかに高くなってしまいます 。調律師はこの現象を逆手にとります。低音域をチューナーの数値通り(理論値)に合わせると、倍音がズレているせいで、人間の耳には「低すぎる」ように聴こえてしまうのです。そのため、調律師は低音をあえて 理論値より低く 設定します。これを「ストレッチ・チューニング」と呼びます 。
これにより、高めにズレた倍音が、中音域の正しい音と協和するようになり、脳が合成する「幻の基音」が、音楽的に正しいピッチとして知覚されるようになるのです。

第4章:結論 —— 音響の4つのゾーン
今回の調査報告書は、グランドピアノの低音域を、物理的実在性と知覚メカニズムに基づいて4つのゾーンに分類しています。この分類は、私たちがピアノの音をどう聴いているかを理解する決定的な地図となります。

Zone 1: 完全な「幻」の領域 (A0〜E1 / 27.5Hz〜41.2Hz)
ここは完全なる「ファントム・ゾーン」です。
響板のカットオフ周波数(約50Hz)を大きく下回っており、音響的短絡により基音は物理的に放射されません。私たちが聴いているピッチの 100% は、脳が作り出した幻影です 。
Zone 2: 物理的放射の遷移領域 (F1〜B1 / 43.7Hz〜61.7Hz)
響板が第1モードの共振(約49Hz〜)に入り、物理的に基音が鳴り始める領域です。しかし、まだエネルギー的には第2倍音(オクターブ上)などが支配的であり、聴感上は「幻の基音」と「実音」が混ざり合ったハイブリッドな状態です 。
Zone 3: 基音の実在領域 (C2〜B2 / 65.4Hz〜123.5Hz)
ここでは基音が明確に放射され、音色の豊かさに貢献し始めます。しかし、スペクトル分析をすると、まだ第2倍音の方がレベルが高いことが多く、基音が「主役」の座を奪うには至っていません 。
Zone 4: 基音支配領域 (C3〜 / 130.8Hz〜)
ついに真打ち登場です。C3(中央ハの1オクターブ下) 付近で、基音成分がスペクトル上で最強(Dominant Partial)となります。基音のレベルが倍音を10dB以上上回ることも珍しくありません 。ここから、ピアノの音は「打撃音的」な響きから、朗々と「歌う」トーンへと劇的に変化します。
エピローグ:欠落が生む美学
物理学的に見れば、ピアノの低音は「欠陥」だらけです。
弦は短すぎて硬すぎ、響板は小さすぎて波長を捉えきれません。ベーゼンドルファー・インペリアルのような例外(97鍵、290cm)を除き、ほとんどのピアノはA0の基音を捨て去っています 。
しかし、その「欠落」こそが、ピアノ特有のあの深みのある音色を生み出しています。基音が強すぎると、音は正弦波に近づき、丸く単純な音になってしまいます。基音が欠け、不協和な倍音が煌めくからこそ、ピアノの低音は複雑で、ドラマチックで、私たちの感情を揺さぶるのです。
次にコンサートホールでピアニストが左手を鍵盤の端に叩きつける時、思い出してください。
その轟音の正体は、12.5メートルの物理的な波ではなく、あなたの脳内の神経パルスが瞬時に描き出した、美しき「幻影」であることを。

しかし、実際のコンサートホールでの演奏では基音は鳴っている?
本レポートはピアノ本体に焦点を絞って解説してきましたが、実際にコンサートホールのステージにグランドピアノが設置され、演奏される状況を考えると、これまで述べてきた「幻の基音」だけでなく、実体としての基音そのものがコンサートホールに響いていることが推測されます。その根拠は、ピアノが設置されているステージにあります。あの広々としたステージの床面はA0(27.5Hz)を放射するのに充分なサイズがあり、床面全体が第二の響板として機能している可能性です。このことは、私がこれまでレコーディングで得た経験から確度が高い現象として言うことができます。コンサートホールで収録した音源をスペクトルアナライザーにかけると、低音の周波数に基音と思われる音の強度が認められます。
それでは、ピアノの弦の振動がステージの床にまで到達する経路はどうなっているのかという疑問が生じると思いますが、この件については、別稿「一音の旅:ピアノの構造と響きの物理学 ~指先から空間へ、時間軸でたどるエネルギー連鎖の物語り~」で述べていますので、ご参考ください。




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