ドイツ編に続き、今回はアメリカ編をお届けします。アメリカと言えば、まず何よりスタインウェイ社という巨人があり、現在も圧倒的とも言える存在感を誇っているのはご存じのことと思います。技術的にもビジネス的にもピアノの進化はスタインウェイを抜きに語ることはできません。
アメリカの発展と歩調を同じくしながら音楽業界に強い影響を与えてきたスタインウェイですが、歴史を遡ると、そのルーツはドイツにあります。1940年代後半頃、経済の下降と食料価格の上昇によって疲弊したヨーロッパから、自由と希望を求めてアメリカへと渡った大量の移民の中にいたハインリッヒ・エンゲルハート・スタインヴィック一家がニューヨークで開業した時からスタインウェイの物語が始まりました。19世紀半ば、ヨーロッパからアメリカへは21万3千人もの人々が渡航し、ピアノに携わる人々に限らず、広範な分野にまたがる人々がアメリカを目指しました。閉塞感から解放され、フィロンティア精神に溢れた当時のエネルギーが、アメリカ発のイノベーションや工業化を推し進め、今日の発展を築いたと言えるでしょう。
そうした歴史的背景を反映して、ピアノについても、「伝統的なヨーロッパ」対「革新性のアメリカ」という構図が透けて見えます。今日私たちが目にする現代ピアノは、技術革新と伝統的手法のせめぎ合いを経て現在の完成形に結実していると言えると思います。
1. スタインウェイ・アンド・サンズ(Steinway & Sons)
http://www.steinway.com/
スタインウェイは、ベヒシュタイン、ブリュートナーと同じ1853年にハインリッヒ・エンゲルハート・スタインヴィックにより、マンハッタンのヴァリック街で創立されました。ドイツ名での「スタインヴィック」はアメリカ読みで「スタインウェイ」とされました。創立後の30年間あまり、ハインリッヒ(ヘンリー)とその息子たち、C.F.セオドア、チャ―ルズ、ヘンリー・ジュニア、ウィリアム、アルバートは、近代ピアノ製造における基礎を築き上げました。スタインウェイ&サンズ社が取得した127の特許技術のうち、ほぼ半分がこの時期に開発されました。その中には著名な物理学者のヘルマン・フォン・ヘルムホルツの音響理論も含まれており、スタインウェイの革新的なピアノはアメリカとヨーロッパの数々の展示会で金賞を獲得し、1867年にはパリの万国博覧会でアメリカの会社で初の最高金賞を受賞しました。スタインウェイピアノはすぐに多くの王侯貴族に選ばれるようになり、世界中の偉大なピアニストの称賛を浴びるようになりました。
革新的なピアノ作りのみならず、スタインウェイは音楽業界の発展に大きく寄与しました。1866年、ニューヨークの14番街に最初のスタインウェイホールをオープンし、文化と芸術の中心として輝かしい歴史を刻みました。2,000席のメインホールを持つスタインウェイホールは、1891年にカーネギーホールがオープンするまでニューヨーク交響楽団の本拠地として使用され、また、当時の最先端のピアノを展示するショールームとしても機能したため、著名なピアニストが集う場としても賑わいました。アーティストのマネージメントも手掛け、パデレフスキー、ホフマン、ホロヴィッツをはじめとする卓越した名ピアニストのプロモーションを積極的に行いました。
名ピアニストがスタインウェイのピアノを弾く様は、多くの人々を魅了し、スタインウェイの知名度と売り上げに大きく貢献しました。アーティストが演奏する場をニューヨークの一等地に設け、演奏活動のサポート・マネージメントしながら、自社の製品を拡販していく構造は、現代の音楽ビジネスの先駆けとも言える企業活動と言えるでしょう。
更にはこの頃、ニューヨーク州クイーンズのアストリアに「スタインウェイ・ヴィレッジ」が形成されました。そこには鋳物工場や製造工場、郵便局、公園そして従業員の住居などがつくられ、まさにスタインウェイ村と言える一大拠点として、仕事のみならず多くの人々の生活の場として機能しました。
広く世界に認知され評判を博するにつれて、スタインウェイの需要は拡大する一方でした。C.F.セオドア・スタインウェイは、その成長ぶりに迅速に対応するため、父親から受け継いだドイツの工房を拡張し、ハンブルクに生産拠点を増設しました。当初ハンブルクでは、ニューヨークで生産されたピアノの部品を組み立てることを主としていましたが、輸入関税の制度変更によってニューヨークからの調達が割高になってくると、ハンブルグ現地での自立的な生産にシフトしていきました。ニューヨーク・スタインウェイとハンブルグ・スタインウェイのニュアンスの違いは、こうした歴史的背景が関係していると思われます。
労働問題に悩まされながらも繁栄の時を謳歌したスタインウェイでしたが、20世紀後半以降の経営は順風満帆とは行かず、1972年のCBSによる買収、その後の複数の個人投資家への売却を経て、1995年にセルマー・インダストリーズの傘下に入ることになりました。今日では、セルマーおよびその傘下に収まった旧ユナイテッド・ミュージカル・インスツルメンツ、ルブラングループらと共に楽器製造企業複合体スタインウェイ・ミュージカル・インスツルメンツ(旧セルマー・インダストリーズ)を形成するに至っています。
2.ボールドウィン(Baldwin)
http://www.baldwinpiano.com/
ボールドウィンはD.H.ボールドウィンによって1873年に創立されました。D.H.ボールドウィンはもともと音楽教師でしたが、会社を設立するとピアノ販売に力を入れ、1891年からは、ピアノ製作を開始しました。ボールドウィンは自らのピアノを、「普通の人々が真面目に働き、理想を追求した結果として生み出されたもの」と評していたそうです。敬虔なキリスト教徒であった彼は、死後、全ての資産を教会に寄付してしまい、会社は倒産に危機に瀕することになりましたが、経理を担当していたルシアン・ウルシンが、ジョージ・アームストロングと共に会社を買い取り、辛くも存続させることが出来ました。
ボールドウィンピアノは1900年のパリ博覧会ではグランプリを受賞し、1920年代にはアメリカの有名なメーカーとして成長を遂げました。現在も弾きやすい良く鳴るピアノとして、その美しい音色が世界中で愛されています。
3.メイソン・アンド・ハムリン(Mason and Hamlin)
http://masonhamlin.com/
メイソン・アンド・ハムリンは、1854年、ヘンリー・メイソンとエモンズ・アムランによりボストンに創立されました。ヘンリー・メイソンはドイツ系で、その祖先はメイフラワー号でアメリカに移住した家系だったと言われています。もともとはオルガンの製作をしていましたが、1883年にピアノ製造を開始し、現在に至ります。
メイソン・アンド・ハムリンの特徴は、ピアノのリムをテンションレゾネーターと呼ばれる金属棒で拘束することで強固な構造とし、リムの変形や響板の沈下が長期間にわたって少ないことが挙げられます。アメリカではスタインウェイに次ぐ高級ピアノと認識され有名ですが、日本には輸入数が少なく馴染みが薄いブランドのようです。
4. クナーベ(Knabe)
http://www.knabepianos.com/
クナーベの創始者ウィリアム・クナーベは1803年ドイツに生まれで、30歳の時にアメリカに移住し、南部のボルティモアで1837年にクナーベを立ち上げました。1861年頃には南部アメリカの多くの地域にシェアを持つ大メーカーとなるまでに成長していきましたが、南北戦争でアメリカはボロボロになり、ナーベの工場も売れない在庫と社員を多数抱える事態に陥りました。倒産の危機に立たされたクナーベでしたがウィリアムの二人の息子達が懸命の努力によって会社を立て直すこととなります。
息子達は、まず、大量の在庫の処分と社員たちの給料の工面、そして銀行からの融資を得るべく、協力し合いました。その結果、南北戦争で比較的荒廃していなかった西部でピアノの在庫を売り切ることに成功するのみならず、新たな注文も獲得し、瀕死状態の会社を救いました。
クナーベは人間の声に近いシンギングトーンを持ちアメリカのピアノの中で最も美しい音を出すピアノと言われています。
5. チッカリング(Chickering)
チッカリングはエオリアン・アメリカン・カンパニーに吸収されて現在は存在していませんが、ピアノの歴史において特筆すべき点がありますのでご紹介します。
チッカリングは、ジョナス・チッカリングにより、1823年ボストンで創立されました。創立者であるチッカリングはもともとピアノの知識があるわけでもなく家具屋で働いていましたが、ある日、イギリスのアメリア王女のピアノの修理を依頼されたことがきっかけとなり、すっかりピアノの魅力に取りつかれてしまったと伝えられます。彼はボストンでジョン・オスボンというピアノ・メーカーに弟子入りしてピアノ造りの知識と技術を身につけます。そして自らの会社を設立し、持ち前の理論家肌の特質を発揮しながらピアノの改良を重ね評判を得ます。
1840年には従来のグランドピアノと異なり総鉄骨が取り付けられた最初のグランドピアノを完成。この画期的な発明は当時のピアノ製造法に改革をもたらし、近代的なピアノの基礎となりました。彼が43歳になる頃には、アメリカ最大のピアノ・メーカーへと成長を遂げていきます。1851年、ロンドンの水晶宮で開催された第1回万国博覧会では数多くの製品を出品し、最高賞を獲得しました。1852年にチッカリング・アンド・サンズと名称を改めますが、同じ年の12月に不運にもピアノ工場が火災に遭い全焼。すぐさま新工場の再建に着手しましたが、心労が祟ったためか1853年12月8日、ジョナス・チッカリングは56歳でこの世を去りました。
彼の死後、長男であるトーマス・E・チッカリングが会社を引き継ぐも、トーマスが若くして死亡。次男であるC・フランク・チッカリングが事業を引き継ぎ、1867年、パリ万博覧会にピアノを出品して最優秀賞を獲得。当時のフランスの皇帝であったナポレオン3世に拝謁を仰せつかるという栄誉を受けました。フランクは音楽芸術に対する貢献として十字勲章を授けられました。
技術革新と近代音楽ビジネスの醸成を推し進めたアメリカのピアノ
お国柄を色濃く反映するがごとく、アメリカのピアノは、フロンティア精神によって進化を遂げてきました。その中でも、スタインウェイの隆盛は他を寄せ付けない覇者としての風格を持っているものと思います。
当時、最大級のエンターテイメントであったであろうコンサートの会場で、これまでとは比較にならないほど多くの聴衆の満足を得る音量を可能にする技術、大量生産を可能にする生産技術と生産体制、アーティストと密接な関係を築いて販売に結びつけるマーケティング戦略、各地に配置されたディーラのネットワークや自社ブランチの配置など、アグレッシブなアメリカという国を体現しているかのようです。当時急速に進歩した科学技術の著しい成果の影響も見逃せません。こうしたアメリカの台頭を横目で見ながら、ヨーロッパのピアノ・メーカーは伝統を引き継ぎながらも、その革新性に戸惑ったのではないかと想像します。
時代を切り拓く革新性と歴史に鍛えられた伝統のせめぎ合い。ピアノに限らず、普遍的なテーマに感じます。