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前回の日本に続き、今回はドイツの代表的なピアノ・メーカーについて書きます。ピアノが技術的に大きく進化をしたのは19世紀のロマン派全盛の頃ですが、1853年にスタインウェイ(米)、ベヒシュタイン(独)、ブリュートナー(独)という当時の3大ピアノ・メーカーが創業されたことで、ピアノ業界は新たな時代の幕開けを告げることとなりました。ロマン派の音楽は感情が重要視され多様な響きが求められていました。そうした中で、作曲家が求める音の響きを得るため、近代ピアノの基礎となる技術革新が盛んに行われたのがこの時代です。ピアノ演奏はサロンのような小規模な場所から、多くの聴衆が集まる大きなコンサートホールへと場所を移し、より大きな音で響き、より遠くに音が届くことがピアノに求められました。また、リストをはじめとする多くの卓越した作曲家・演奏家が求める複雑で多彩な音楽表現を可能にする機構が考えられ、これがピアノを大きく進化させてきました。
ドイツのピアノ・メーカーは、こうした歴史的伝統を守りながら、今日的な要素を取り入れながら現代にマッチしたピアノ造りをしていると言えると思います。
1.ベヒシュタイン(C. Bechstein )
http://bechstein.com/en/home-page.html
1853 年にカール・フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ベヒシュタインによって創業されました。カールは、14 歳でピアノ職人だった義兄ヨハン・グライツのもとに送られ、ドレスデンで修業の後、ベルリンのペロー工場に入りピアノ職人としての頭角を現したとされます。その後1849年にはロンドンからフランスへと渡り、ヨーロッパのピアノ生産の中心地でピアノ製作について探求しました。
カールは天賦の音楽的才能を持っており、ドイツの指揮者(ベルリンフィルの初代指揮者)でピアニストでもあったハンス・フォン・ビューローにも認められました。当時最も注目されていたピアニストはフランツ・リストでしたが、リストの激しい演奏に耐えられるピアノがなく、ピアニストに求められているタフで技巧的な演奏と繊細なタッチができるようなグランドピアノに向けて改良を進めていきました。1857年には、ベヒシュタインのコンサート・グランドがリストのコンサートで紹介され、「フランツ・リストの演奏にも耐えられるピアノ」として有名になり、急速に販売量を増やしていきました。
栄光の時代を謳歌したベヒシュタインでしたが、1929年に始まった世界大恐慌で経営は低迷し、その後、第2次世界大戦でのイギリスとアメリカによる爆撃により工場が損壊。ピアノ生産を一時停止せざるを得なくなりました。1945年に再開するもナチスドイツに協力したとして連合軍の管理下に置かれ、戦勝国アメリカのスタインウェイが台頭してピアノ業界の主導権を握るようになり、1963年にはアメリカのボールドウィンに買収され、長い低迷期を送りました。
1986年5月ドイツ人のピアノ製作マイスター、カール・シュルツェ氏が経営権を買い戻し、あらゆる意味においてドイツに戻りドイツを代表する名器として世界市場への復活を遂げました。
ベヒシュタインはリストにはじまり、作曲家ドビュッシーにも愛されたことで有名です。透明感のある音色は巨匠から絶大な信頼を受け、ルトスラフスキー、チェリビダッケ、ペンデルツキ、バーンスタイン、チックコリアと幅広いジャンルの音楽家に愛用されてきました。「ペダルを踏んでも濁りにくく、ふわりとした空気感の中にも芯をはっきりと持った響きを生み出す」と評されます。
2.ブリュートナー(Blüthner)
http://www.bluethnerworld.com/
ブリュートナーはスタインウェイ、ベヒシュタインと同じ1853年にユリウス・ブリュートナーによって旧東ドイツ・ライプツィヒで創業されました。当時のライプツィヒは音楽の中心地で、メンデルスゾーンが指導していたライプツィヒの音楽学校にピアノを納入した事からその名声が広がり生産台数も大幅に増やし世界各国へ市場を広げて行きました。1867年から1905年にかけ、パリ、ウィーン、シドニー、メルボルン、アムステルダム、ケープタウンにおいて各博覧会のファースト・プライズを受け、1900年のパリ、1904年のセントルイス、1910年のブラッセル、1927年のジュネーブでグランプリを獲得するなど世界的な名声を得ました。
他の多くのドイツのメーカーと同様に、第2次世界大戦中には工場が空襲で焼かれ屋根は焼け落ち楽器はもちろん材料となる木材もすべて焼き尽くされました。戦後、東ドイツ時代には一時国営化されましたが、1990年の東西ドイツ統一を期に経営権はブリュートナー家に返還され、その後順調に業績を伸ばし、2005年にはヨーロッパにおけるコンサートグランドピアノの販売台数が、2番目に多いという記録を作るまでに回復しました。
ブリュートナーの特徴は、「アリコートシステム」といわれる、独特な響きを生み出すシステムで、高音部に4本(通常は3本)の弦が張られおり,4本目の弦はハンマーで叩かれず、共鳴による倍音を発生させるようになっています。このアリコートシステムは、1872年に特許を取得しています。
ブリュートナーのピアノは、ブラームス、リスト、チャイコフスキー、ドビュッシー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフなどの多くの有名な作曲家、ブゾーニ、アラウ、ルービンシュタイン、プレトニョフなどのピアニスト、そのほかヨハン・シュトラウス2世、フルトヴェングラー、メニューイン、マルケヴィッチなどの音楽家からも高く評価されました。ドビュッシーが唯一自ら購入して愛用していたのがブリュートナーであり、ブリュートナーを使って作曲していました。ポピュラー音楽では、ビートルズが映画「Let it Be」でブリュートナーピアノを使用している映像が残っています。
3.グロトリアン(GROTRIAN)
http://www.grotrian.de/ja/index_menu.html
日本ではあまり馴染みのないブランドですが、クララ・シューマンが愛用したピアノとして有名です。クララがフランクフルトの町の楽器店で新入荷のグロトリアンをはじめは弾こうとしなかったものの、店主の勧めで弾いたのが初めの出会い。最初は立ちながらだんだんと手袋を右手・左手と脱いで弾いていくうちに止まらなくなり、立ち上がった時には「これからはグロトリアンしか考えられません!」と告げ、生涯グロトリアンを弾くことになります。
グロトリアンの歴史はスタインウェイピアノの歴史と関係があり簡単に記します。1835年、ヘンリースタインヴィッヒはドイツの工場でその弟子のグロトリアンと共に「スタインヴィッヒ・ナッハ・ホルゲル」という2台のピアノを完成させました。2人の手によるそのピアノの評判は、瞬く間にヨーロッパ全土に広がり会社も急速に発展していきます。1850年、スタインヴィッヒ一家は長男のテオドールを残して、新天地アメリカ・ニューヨークへと移住し、1853年にその名を英語名のスタインウェイに改め、スタインウェイ・アンド・サンズを創業することになります。ヘンリー亡き後ドイツの工場はグロトリアンに売却され、「グロトリアン・スタインヴィヒ・ナッハ・ホルゲル」となり、テオドールもニューヨークに移住し、スタインウェイとの共同作業は終わりを告げました。その後、スタインウェイ社がCBSへと売却された際、特許と名称への係争裁判がおこり、ブランド名をヨーロッパ以外では「グロトリアン」、ヨーロッパ国内は「グロトリアン・スタインヴィヒ」のブランド名で販売地区が分けられました。
グロトリアンの特長は「ホモジェナス響板」と言われるものです。ホモジェナスとは均一という意味で、響板を構成する個々の音響材が全体として完全に均整がとれるよう工夫されています。アルプス山脈の標高の高い場所で一様に成長した樹齢百十年以上のスプルースだけを原料とし、成熟度や構造や色などの厳しいチエックをし、材料の品質を丁寧に揃えて響板に加工するという贅沢な製法がとられています。単に響板としての音の増幅を担うだけでなく、シンキングボード(歌う板)と評される美しい音色を生むと評されます。
4.ザウター(SAUTER)
http://www.sauter-pianos.de/japanese/home.html
ザウターピアノは、1819年創業とされており、現存する古い歴史を持つピアノ・メーカーの一つです。創業者のヨハン・グリムは、地元の教会において鍵盤楽器に感銘を受け、ピアノ製作者の道を志したそうです。彼は当時音楽の都であった、ウィーンに引っ越しベートーベンとの親交のあったピアノ製作者シュトライヒャーのもとで技術を学びました。その後、後継者となる甥のカール・ザウターの名をとり、ザウターと名づけられました。ドイツのピアノ造りの伝統を受け継ぐ、ドイツピアノの正統派として多くのピアニストやピアノファンから愛され続けているブランドです。
南ドイツ・ウィーン派の流れをくむザウターピアノの響きは明らかに北ドイツのメーカーとは異なります。その特徴である明るくブリリアントな響きを出すための様々な工夫が施されており、特に音の特性を決定付ける 響鳴板は限りなく薄く、しかも半球状の膨らみ(クラウンといわれる)は、限りなく深く造られています。これは他のピアノと比較しても際立った特徴と言えます。
5.イバッハ (IBACH)
http://www.ibach.de/
イバッハは、1794年に創業したドイツ最古の歴史を持つピアノ・ブランドです。創始者である、ヨハネス・アドルフ・イバッハはドイツ中のオルガンとピアノのメーカーを訪ね歩き、様々な技術を吸収しました。そして、ナポレオン戦争真っ只中の時代に空腹に耐えながらも名器を生み出したのです。2代目カール・ルドルフ・イバッハは、1825年に21歳で工場を継ぐと、初代の偉業を受け継いで、ヨーロッパ中を自分のピアノと共に巡り、博覧会に出品しました。そして、次々と賞を獲得して名声を高め、イバッハを繁栄に導いて行きました。3代目を継いだルドルフ・イバッハ・ジュニアの時代を経て、リヒャルト・ワーグナー、フランツ・リスト、エミール・フォン・ザウアー、マックス・レーガー等多くの大音楽家達がイバッハを愛好し絶賛し続けました。
イバッハの工場はデュッセルドルフ近郊のシュヴェルムにあって、ドイツ最古の歴史を誇るピアノ・メーカーとして、優美で性能が抜群のピアノを製作し続けいます。イバッハのピアノには無限の耐久性があると言われ、ピアノの「ロールスロイス」と言われています。
6.シュタイングレーバー&ゼーネ (Steingraeber & Söhne)
http://www.steingraeber.de/
シュタイングレーバは、1820年にゴットリーブ・シュタイングレーバー氏によってチューリンゲン州のアルンシャウクの町で始まりました。2代目のエドワード・シュタイングレーバーは1852年に現在のバイエルン州バイロイト市に工場を建設し、ウィーン式と英国式のアクションを両方取り入れた革命的な名器「Op.1」を完成させました。フランツ・リストは、何種類ものピアノを弾いていましたが、晩年バイロイトに移り住んで、亡くなるまでシュタイングレーバーを愛用しました。現在6代目のウド・シュミット・シュタイングレーバー氏によって、世界で最も伝統的技法を継承するピアノ・メーカーとして引き継がれています。
今日、歴史あるシュタイングレーバーハウスでは、年間70回あまりのコンサートをロココの広間、ピアニストと歌手のための北の広間、中庭の舞台、シュタイングレーバーギャラリー、グランドピアノ棟の室内楽ホールなどで開催し続けています。リストが愛用したピアノはワグナーが愛用したピアノと共にロココハウスに現在もあります。
7.シンメル (Schimmel)
http://www.schimmel-pianos.de/
ドイツ最大のピアノ・メーカーであるシンメルは、1885年、ウィルヘルム・シンメルによってライプツィヒで創業し、1897年にはライプツィヒ・スターリッツの新たに設立した工場へ移転。この頃にはアメリカ、イタリア、ロシア等の国々へ輸出され、1898年には、製造台数2500台という驚異的な急成長を成し遂げました。シンメル社は第1次及び第2次世界大戦で被害を被りながらも、着実に生産数を伸ばし続け、ドイツで製造されたアップライトピアノとして、1958年には世界でNO.1の売上げを記録しました。
シンメル社は創業当初より一貫して「品質第一主義」をモットーにしており、かつてそのカタログに「デザイン・エクイジット」と記載されていたように、1台1台に行き届いた入念な仕上げ、格調あるデザイン、豊かな音色を持ち、誠に優美で精巧な楽器を作り続けています。
シンメルはドイツ的な正当な音色を持ち、低音から高音の音量も小型のボディーからは想像できないほど均質に響く優れたピアノで、音色・タッチともに綺麗で弾きやすく、外装もスマートで洗練されています。
ドイツピアノの伝統
ドイツの代表的なピアノ・メーカーをご紹介しました。それにしても、やはりドイツは歴史と層の厚みが違いますね。また、ことピアノという複雑な機構を持つ楽器制作において、ドイツ人ならではの職人気質と理知的な思考が融合し、芸術に昇華していくありようはドイツならではと感じます。
残念でならないのは、先の大戦でドイツに数多くあった優れたピアノ工房が、壊滅的な破壊を受け、その多くが消滅してしまったことです。工房という物理的な場のみならず、そこで働いていた熟練の技を持った職人も数多く犠牲になりました。職人に蓄積していた伝統の技の多くは、戦争によって断絶してしまい、もはや取り返すことができません。