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斉藤和久&山本実樹子 デュオリサイタル収録レポート:郷愁とベルカントが交差する音楽の深淵

  • 執筆者の写真: STUDIO 407 酒井崇裕
    STUDIO 407 酒井崇裕
  • 4 時間前
  • 読了時間: 11分

2026年8月9日、厳しい真夏の熱気が地上を覆う中、千葉県松戸市に位置する松戸市民劇場において、「斉藤和久&山本実樹子 デュオリサイタル」を収録してきました。クラシック音楽におけるアンサンブルの極致とは、単に楽譜に記された音符を正確に再現することではなく、奏者同士の魂の交歓であり、それが空間の空気振動となって聴き手の記憶の深層に触れる瞬間にこそ宿ります。

当日の収録現場では、長年にわたり両氏の活動を間近で見つめてきた関係者たちが息を呑むような、ある種の「音楽的マジック」が記録されました。


青い花の装飾に囲まれたバイオリン演奏会の告知ポスター。斎藤和久が演奏し、山本実樹子の肖像、2026年8月9日14時、松戸市民劇場、QRコードと料金表記あり。

このデュオが紡ぎ出した比類なきサウンドの秘密を、歴史的録音(SP盤)の音響特性、伝説的ソプラノ歌手アメリータ・ガル=クルチのベルカント唱法、そしてお二人が歩んできた極めて多角的な音楽的軌跡と精緻な楽曲分析を交えながら、詳細かつ親しみやすい視点で紐解いていきます。


結成25周年の到達点「一期一会」がもたらす新鮮な戸惑い デュオリサイタル

今回のリサイタルに際して配布された、美しい紫陽花があしらわれたプログラムの挨拶文には、非常に印象深い言葉が綴られていました。「本日はお暑い中、お出かけくださりありがとうございます。実はこのデュオ、気がついたら、活動25年目になっていました」という率直な一文です。

四半世紀という途方もない時間を共に歩んできたアンサンブルであれば、通常は阿吽の呼吸によって型にはまったルーティンへと落ち着き、解釈が固定化されてしまうのが自然の摂理です。しかし、プログラムの挨拶文は次のように続きます。「しかしながら・・本番だけでなく、サイトウとのリハーサルもまた毎回、本当に一期一会!言葉通り、毎回驚きと大事な気づきと、ほんのちょっぴりの新鮮な戸惑いに満ちています」。

この「新鮮な戸惑い」という表現にこそ、このデュオが持つ音楽的生命力の真髄が隠されています。音楽を過去の遺物や固定化されたモニュメントとして扱うのではなく、その瞬間の空気、互いの呼吸、そして感情の微細な揺らぎに反応して変幻自在に形を変える「生きた言語」として捉えている証左と言えるでしょう。「でも本来音楽って、そういう『生きた』もの。今日はそんな、生まれたての音楽を分かち合えましたら幸いです」と締めくくられたこの言葉通り、松戸市民劇場の空間には、予定調和を一切排した、文字通り「生まれたての音楽」が満ち溢れていました。


暗いコンサートホールの舞台で、ドレス姿のピアニストとバイオリン奏者がグランドピアノで演奏している。

収録現場を包み込んだ「SP盤の郷愁」と音響の魔法

当日の収録において、モニター越しに流れてくる音を聴いた関係者からは、「いやぁ、いいですわぁ~」という純粋な感嘆の声が漏れました。そのサウンドには、遠い記憶を手繰り寄せるような懐かしさと、そこから静かに、そして豊かに広がっていく情景が内包されていたのです。聴いているうちに心がほんのり温まってくるようなその響きは、どこか、1910年代から20年代にかけて一世を風靡したフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler)の古いSP盤音源を聴いているような、得も言われぬノスタルジーを漂わせていました。

なぜ、現代の最新鋭の機材で収録されたデジタル音源から、そのような「SP盤の郷愁」が感じられたのでしょうか。それには、歴史的な録音技術の変遷と、ヴァイオリンという楽器の奏法の進化が密接に関わっています。


クライスラーの魔法と斉藤和久の「とろける音色」

フリッツ・クライスラー(1875-1962)は、現代のヴァイオリン奏法の基礎とも言える「連続的で表情豊かなヴィブラート」や、音から音へ滑らかに移行する「ポルタメント」を確立し、世界中の聴衆を魅了した巨匠です。彼の甘美で人間味あふれる音色は、アコースティック録音の狭い周波数帯域と完璧な相性を見せ、SP盤を通じて世界中の家庭に届けられました。

斉藤和久氏のヴァイオリンから放たれる音色は、まさにこの「クライスラーのSP盤」が持つ、中音域の分厚い温もりと、聴き手を優しく包み込むような質感を見事に現代に蘇らせていたのです。現代のコンクール至上主義的な、過剰な弓圧で楽器をねじ伏せるような鋭く冷たいアプローチとは対極にある、弦の自然な振動と弓の重さに寄り添った、芳醇なチョコレートのようにとろける音色。それが、最新の録音機材を通してもなお、古き良き時代のSP盤特有の郷愁を呼び起こした最大の理由だと言えるでしょう。


コンサートホールの舞台で、黒い衣装の男性がバイオリンを演奏し、後ろで女性ピアニストがグランドピアノを弾く。

ヴァイオリンが体現する「ベルカント」:アメリータ・ガル=クルチの幻影

収録の際、同席していた関係者(筆者の配偶者)から、さらに決定的な感嘆の声が漏れました。「アメリータ・ガル=クルチの歌声が浮かんできた」という、極めて鋭い直感的な指摘です。この言葉を受けて改めて演奏に耳を傾けてみると、まさにその直感の正しさが証明されることとなりました。


クリーム・ベルベットと称された至高のソプラノ

アメリータ・ガル=クルチ(Amelita Galli-Curci, 1882-1963)は、1910年代から20年代にかけて世界中を席巻したイタリア・ミラノ出身のコロラトゥーラ・ソプラノ歌手です。幼少期にピアノを学び、卓越した音楽的基礎を持っていた彼女は、1905年に作曲家ピエトロ・マスカーニから「あなたには類まれな音色(ティンバー)がある。20年後でもどこにいてもあなたの声だとわかるだろう」という決定的な賛辞を受け、声楽の道へと進みました。

彼女の最大の魅力は、同時代の歌手であるルイーザ・テトラッツィーニ(Luisa Tetrazzini)のような圧倒的な声量や派手な技巧をひけらかすことではなく、極めて純粋で澄み切った「ベルカント(Bel Canto)」の体現者であったことです。ベルカントとは、単に美しい声を出すだけでなく、息の圧力を精密にコントロールし、メッサ・ディ・ヴォーチェ(一つの音符の中で音量を滑らかに増減させる技術)や、完璧なレガート(音の切れ目を感じさせない滑らかな繋がり)を駆使する高度な歌唱法を指します。

ガル=クルチの声はしばしば「パンジーの中心」や「クリーム・ベルベット」に例えられ、無理な胸声(チェストヴォイス)で低音を誇張することを避け、極めて自然で純粋な頭声(ヘッドヴォイス)による浮遊感を保ち続けました。彼女がビクター・レッド・シール(Victor Red Seal)レーベルに残した1917年頃の録音(ベッリーニの『夢遊病の女』や『清教徒』の狂乱の場など)を聴くと、アコースティック録音の限界を超えて、その天国的な音色と完璧なディクション(発語)が現代の私たちの心をも強く打ちます。


声楽的アプローチによるアンサンブルの昇華

「このヴァイオリン、まるで歌声のよう」という言葉通り、斉藤氏のヴァイオリンは、単なる擦弦楽器としての物理的な制約を完全に脱ぎ捨て、まるでガル=クルチの喉から発せられる純度の高いソプラノの歌声のように響いていました。息のコントロール(弓の速度と圧力の絶妙な配分)によって音のふくらみと減衰を自在に操るその様は、まさにベルカントの極みです。

そして、その極上の「声」に対して、決して伴奏の枠に留まることなく、同じ呼吸でそっと寄り添う山本実樹子氏のピアノ。二つの楽器の音が空中で溶け合い、重なり合うことで、単なるデュオの音像を超え、お二人の人間としての温かい佇まいや人生の歩みまでもが感じられるような、不思議な親密さと形而上学的な空間が構築されていました。


越境するヴァイオリニスト・斉藤和久の音響的背景

このような規格外の「歌心」と「郷愁」を放つ斉藤和久氏の音楽性は、彼が歩んできた極めて異色かつ多角的なキャリアによって形成されています。

1964年に宮城県で生まれた斉藤氏は、5歳から父親の厳しい指導のもとでヴァイオリンを始め、徹底的に「良い音、美しい音」に対する美意識を叩き込まれました。桐朋学園高等学校音楽科から桐朋学園大学音楽学部へと進み、高度な専門教育を受けた彼ですが、大学卒業後にハーゲンダッツ六本木店に1年間勤務するという、クラシック音楽家としては極めて珍しいモラトリアム期間を経験しています。この期間が、熾烈な競争社会から離れ、人間としての幅を広げる重要な契機となったことは想像に難くありません。


オーケストラから室内楽の最高峰へ

その後、新日本フィルハーモニー交響楽団に入団し、5年間にわたって大規模なアンサンブルの基盤を築きます。退団後はフリーランスの客演首席奏者として、札幌交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団などで要職を歴任。さらに、小澤征爾が主宰するサイトウ・キネン・フェスティバルにも参加するなど、オーケストラ奏者としての確固たる地位を築きました。

しかし、彼の芸術的頂点の一つは室内楽にあります。「きさカルテット」の第1ヴァイオリン奏者として活動した際、20世紀を代表する伝説的な弦楽四重奏団「アマデウス・カルテット」のサマーコースに参加し、世界的巨匠から直接の薫陶を受けました。チェリストのマーティン・ロヴェットからは「ベートーヴェンの後期の作品について語り合える、希有なカルテット」「一生に出会えるか出会えないかの素晴しいヴァイオリン奏者」という最大級の賛辞を贈られています。さらに、第1ヴァイオリニストであったノーバート・ブレイニンの表情豊かなヴィブラートと歌い回しは、斉藤氏自身の「とろける音色」の重要な源流となっています。


古楽器への回帰とスタジオワークの適応力

特筆すべきは、日本の古楽界を牽引する有田正広や中野哲也らに師事した経験を持ち、一時はロマン派的な感性との間に葛藤を抱えながらも、後に古楽器の世界へ深い洞察を持って回帰している点です。日本を代表する中世・ルネサンス音楽のアンサンブル「カテリーナ古楽合奏団」にフィーデルおよびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として参加し、50周年記念CD『祝祭』においては、13世紀の「聖母マリアのカンティガ」やカルミナ・ブラーナといった中世の世俗曲を見事に現代に蘇らせています。

古楽器(特にガット弦と独特の弓)の演奏では、モダン楽器のような強い弓圧をかけることができず、弦の自然な鳴りを引き出す繊細なボウイングが要求されます。この古楽器での経験こそが、斉藤氏のモダン・ヴァイオリンにおける「力みのない、呼吸するような自然な発音(メッサ・ディ・ヴォーチェ)」を可能にし、結果としてベルカント歌手のような声楽的な響きを生み出している最大の要因と言えるでしょう。

同時に、日本の映像文化を支える「Koike Strings(小池ストリングス)」の主宰アシスタントとして、あらゆるジャンルの音楽を初見で完璧に弾きこなすスタジオ・ミュージシャンとしての圧倒的な適応力も持ち合わせており、その多角的な活動はまさに「越境の開拓者」と呼ぶにふさわしいものです。


対話を構築する総合音楽家・山本実樹子の「音楽修辞」

斉藤氏の自在な歌心に対して、完璧なバランスで対話を構築するピアニスト・山本実樹子氏もまた、極めて多層的な背景と深い教育哲学を持つ「総合音楽家」です。

幼少期からヴァイオリンとピアノの両方を並行して学んだ彼女は、桐朋女子高等学校音楽科を経て桐朋学園大学を卒業。井口基成、井上直幸といった日本を代表する指導者から厳格な訓練を受けるとともに、三善晃らから室内楽の指導を受け、楽曲を建築的に捉える視座を獲得しました。


鍵盤楽器の歴史的系譜への接近と園田高弘賞

大学卒業後、さらなる研鑽のために米国ワシントン州立大学大学院へ留学したことは、彼女の音楽性に決定的なパラダイムシフトをもたらしました。ロビン・マッケイブ氏にピアノを師事する傍ら、キャロル・テリー氏のもとでチェンバロおよびパイプオルガンを学んだのです。

オルガンやチェンバロといった歴史的鍵盤楽器は、現代のピアノとは異なり、音の減衰や発音機構が全く異なります。この学習を通じて、彼女は多声音楽(ポリフォニー)における各声部の独立性や、アーティキュレーション(音の区切り)の重要性を身体化しました。帰国後、日本におけるドイツ系レパートリーの最高権威である「園田高弘賞ピアノコンクール」で優勝し、園田高弘賞を受賞したことは、彼女の構築的かつ知的な楽曲解釈が高く評価された証明です。


演奏会場で、ベージュのドレスの女性がグランドピアノを弾き、譜面を見ながら伴奏者と共演している。静かな緊張感。

実践的音楽修辞とザウター・ピアノの響き

山本氏の活動の根幹には、バロック時代に確立された音楽を一種の「言語」や「演説」として捉える修辞学を、現代のピアノ演奏に応用した「実践的音楽修辞(Musical Rhetoric)」の哲学があります。彼女が主宰する「ミントの森Music School」では、この修辞学を体系化したカリキュラムを通じて、単に音符を追うだけではない「説得力のある音楽の語り口」を後進に指導しています。

また、彼女の録音芸術における音響的こだわりも尋常ではありません。ブルクミュラーの練習曲(Op.109)のCD録音においては、現代主流のスタインウェイやヤマハではなく、南ドイツの老舗メーカー「ザウター(SAUTER)」のピアノを意図的に指名しました。ザウター特有の、響鳴板(サウンドボード)が薄くクラウンが深い設計から生まれる、明るく色彩感豊かで温かみのある倍音を最大限に活かし、練習曲を高い次元の芸術作品へと昇華させています。今回の収録におけるピアノの音色も、このザウターの響きを追求してきた山本氏の繊細なタッチとペダリングの賜物であり、だからこそ斉藤氏のベルカントのようなヴァイオリンと完璧に共鳴し、「歌にそっと寄り添う」ことができたのです。


懐かしさと新しさが交差する「永遠の現在」

2026年8月9日の松戸市民劇場における収録は、単に楽譜に書かれた音符を正確にデータ化する作業ではありませんでした。それは、フリッツ・クライスラーがSP盤に刻み込んだヒューマニティ溢れる温もりと、アメリータ・ガル=クルチが体現した極上のベルカントの美学を現代の空間に蘇らせ、かつそれを「いま、ここで起きている真の対話」として新鮮に提示する、極めて高度な芸術的行為の記録です。

斉藤和久氏と山本実樹子氏という、多岐にわたるジャンルと歴史的背景を深く咀嚼し、自己の血肉としてきた二人の音楽家。彼らが交わす「実践的音楽修辞」は、四半世紀という膨大な時を経てもなお、予定調和に陥ることを断固として拒否しています。リハーサルの度に生じる「新鮮な戸惑い」を恐れるどころか、むしろそれを音楽の推進力へと変換していくお二人の真摯な姿勢がある限り、彼らの奏でる音楽は常に「生まれたて」であり続けるのでしょう。


当日の演奏から一部をご紹介します。


 
 
 

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